戦争が終りに近い夏、昭和二〇年阿久津村の警防団の人々は村を守るために、警報のたびに出動し、農作業のひまもなく、田畑の手入れも十分にできなかった。そして敗戦になると緊張感を失い、仕事に精をだす気力も失った。
昭和二〇年の農業生産は最悪の状況をむかえ、翌年にかけて深刻な食糧難が人々をおそった。阿久津村も例外ではなかった。その上、敗戦を機に農作物がひんぴんと盗まれるようになり、警防団はその対策に苦慮していた。
阿久津村の警防団はまず農作物窃盗犯取り締まりを九月一日より三日まで実施した。団員が二人一組になり、村内八か所で午後七時より一〇時まで張込みを行った。張込場所は
一、第四分団は、宝積寺字石神、立橋東国道
二、第一分団は、大谷字天沼地内、上阿久津に通ずる鉄道踏切
三、第二分団は、中阿久津台国民学校裏鉄道踏切附近
四、第七分団は、宝積寺西町久下田街道入口、斉藤桶屋前十字路
五、第六分団は、石末字赤堀前斉藤ハル煙草屋前十字路
六、第十分団は、東町綱川八百屋前十字路
七、第四、九分団は、石末原坪、十三仏前十字路
八、第八分団及び第五分団は、大谷梨畑附近
など他所から入り込むとき、必ず通る交通の要所だった(史料編Ⅲ・一一六七頁)。
米穀の供出を確保することはとくに困難だった。政府は供出米確保のため、二〇年一一月一七日の閣議で供出価格を一石九二円五〇銭から一五〇円に引上げ、肥料、農具、衣糧の特配品を支給することで米の確保をはかった。しかし成果はみられなかった。
北高根沢村でも供出には努力をしていた。村長は各部落会長に二〇年一二月三〇日付で米穀供出促進に関する通知をだしている。それによると、食糧庁長官からの電報で「目下の供出状況ははなはだ不振で、今後このまま推移すれば、極めて危険な事態を招ねく恐れがあるので是非相当量の供米の確保をはかり消費者に不安をあたえないように特段の配慮をしてほしい」と通知があったので、各部落でこの趣旨をよく伝え、供出の促進に努めてほしいというものであった。上柏崎の区長には、二七日までの供出成績が割当に対する約一割七分という状況なのでさらなる督促を訴えている。