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供米促進運動

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 戦後混乱のなか国民生活の最低条件は食料の安定化であった。アメリカからの援助はなく国内でいかに食料をまかなうかが大きな問題であった。供米運動はその中心におかれ、県にあっては供米が最大の課題であった。栃木県の供米成績は昭和二一年一月五日現在で足利五八、安蘇五六、那須四一、河内・下都賀各三五、塩谷三四、上都賀三二、芳賀二二パーセントで平均して三六パーセント前後という数字であった。これを少くとも一月末までには八五パーセントまでこぎつけたいというのが県当局のみならず県民全体の農民によせる切なる願いであった。
 昭和二一年一月、小川喜一知事は栃木県の二〇年度供出が五〇パーセントに充たないことを知ると、食糧緊急措置令の公布を待って二月一五日に強権供出を執行する方針を予告した。
 塩谷郡下の供米成績は二月一七日の食糧緊急措置令の公布当日までには割当数二八万三四九九俵のうち供出米がわずかに一二万八二〇〇俵で四五・二パーセントという不振の成績であった。小川知事は出席した二月一九日の矢板国民学校での供米促進協議会を契機に塩谷郡各町村に対し、強権発動を前に最終的督励を強力に展開し、窮迫した食料事情を訴えて生産者の自主的な協力を要望した。その後、供出完遂に拍車をかけた結果、三月一〇日現在では一四万三六四〇俵の供出があり、五五パーセントと五割をこえる成績をあげることに成功した。さらなる成績をあげるため各町村の督励班は学校教員、婦人会、男女青年団幹部等の援助を求め一斉に戸別督励を開始した(「下野新聞」昭和二一年三月一三日)。
 阿久津村長は婦人会員、女子青年団員に対し、「敗戦後ノ今日ニ於テ、手箱ノ中カラ黄金一〇両ヲ差シダシテ夫一豊ノ面目ヲ保チ、崩レカヽッタ一家ヲ復興セシメタ、カノ山内夫人ノ意気ヲ発揮シテイタダキタイ」と婦人の力、協力の心を例にあげて厳しい供出への協力を願った。
 一方、地方事務所では強権発動の前提としてさし当り、郡内四八六名の供出不振者に対し知事名で「供米警告状」を発することにした。内容は三月一五日迄に供出しない場合は食料管理法の規定で三年以下の懲役、又は一万円以下の罰金に処せられるというものである。こうして一二日午後一時より強権執行官の協議会を開催し執行の対策をねった。