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強権発動

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 昭和二一年県食糧課近藤事務官を総指揮官とした収用役人一五名は矢板農学校に宿泊して四月一五日から二〇日間の六日間にわたって矢板、阿久津、氏家、熟田、北高根沢等五か町村一二九戸の不協力農家に対しまず督励をおこなった。その結果、自主的に供出を確約した農家が五七戸、その内訳は玄米二五六俵、白米二六俵、大豆八俵の合計二九〇俵である(「下野新聞」昭和二一年四月二四日)。一方、あくまで不作だとして供出をこばんで強権発動をみた者が矢板五、阿久津三、氏家五、熟田七、北高根沢三合計二三件で収用量は六日間で総計四二七俵にのぼった。
 不協力農家ではどのようにして米を隠匿していたかをみるといろいろな方法があった。矢板町塩田の某家は防空壕に玄米一〇俵、他には納屋の籾殻のなかに玄米二俵をかくしていた。熟田村松山新田の某は物置小屋に白米一四俵、柿木沢の某は病人の敷布団、納屋の床下、籾殻等に玄米六俵、文挾の某は物置小屋、裏山に玄米、白米、大麦、小麦等四俵をかくしていた。北高根沢の平田の某は氏神の棚下に白米三俵、納屋に玄米三俵、及び籾六七貫を隠匿し発見されている。
 ここにあばかれた悪質者を阿久津村の某家でみると、某家は宅地一町歩余、内に住宅を含めて建物が七~八棟、倉庫二棟と、はなれ屋敷もある大きな農家である。耕作面積は三町六反五畝、供出割当は一一七俵に対し実際供出数は四四俵であった。供出率は三七・六パーセントに過ぎなかった。これに対する家族の言うことを聞くことにする。
 まず、現在の保有米は米三俵、白米三斗、種子用籾二石四斗、大麦二俵、小麦一俵で、耕作地については小作人がひきあわぬとして返還し、自分で耕作したため除草も一回、肥料不足で当底割当数量は収納できないという。次に家族一三人、疎開者一二名の大家族では如何ともなしがたいと述べている。またこの世では物々交換をしなければ生活できないと、娘の女学校通学用の自転車が破損したので取りかえるのに米一俵半、反物を手に入れるのに三~四俵が必要であると申し立てている。家人の意見を聞いたあと係官は捜査に入った。隠匿米は各所から次々にあらわれた。農具置場で米一俵、籾米四俵、倉庫を調べると米一二俵、麦三俵が現われた。離れ座敷の家宅捜査では米二俵が蒲団につつまれてあり、箪笥からは袋につつまれた米一俵半が現われた。驚いたことに便所から米二俵がでてきた。さらに地下室から「つぼ」六、七個から各五、六升から七、八升の米が現われた。女中、作男部屋からは米二俵、勝手の床に五升乃至一斗の米が現われた。最後に庭先をみると多数の箱がつんであり、そこから一俵、防空壕には麦八俵と合計すると米三五俵、麦一八俵、屑米一俵、合計五三俵が巧妙にかくしてあり、さながら芝居をみるようであったという(「下野新聞」昭和二一年三月二五日)。
 強権発動に対し農民の反対運動も起こされた。三月二二日に芳賀郡の農民二、〇〇〇人が日本農民組合、共産党、社会党の指導者に引率され県庁前で強権発動反対を訴えた。この反対運動には一部農民、消費者から不満、反対の声が上った。県庁前に集った農民の大部分は芳賀郡の大内村、山前村であった。この村々は三月十五日現在で大内村三九パーセント、山前村は二一パーセントと供出量が少なく、他地区の農民の反感をかっていた。また反対デモの農民が昼食をした時、その握り飯が殆ど白米の大きなものであったという。これを目撃した市民は口を揃えて農民の非をせめたという(「野州民報」昭和二一年三月二四日)。県では第二次、三次の強権発動を視野に入れ供出率をたかめ、三月二五日には六三パーセントと成果をあげていった。

図1 供出に強権発動を伝える記事(「下野新聞」昭和21年3月17日付)