昭和初期から続いた一五年戦争は昭和二〇年八月一五日、敗戦という形で終った。今後どのような方針で教育活動を行うべきか、学校は全く虚脱状態となった。その中からの第一歩は八月二二日に栃木県中等学校学徒隊町村隊の結成である。いわゆる疎散教育の開始である。中等学校の生徒は二一日に学徒結成式に参加し、二二日から中等学生は自宅が学校から一里以内の者は自分の学校へ、他の生徒は居住地の国民学校長の指揮をうけて作業をすることになり、翌日からの作業班をきめて二一日は正午に解散した。その後雨天が続き作業も余り進まなかった。北高根沢国民学校には女子学生が多かったが生徒三〇〇余名ほど柏崎の山の上を開墾してソバをまき、サツマ畑の除草をした。せっかく宇都宮の学校に入学しても地もとで他の学生と共に生活することに不満をもつ生徒も見られた。しかし疎散生徒も九月二日頃より次第に帰校がはじまり一〇月からは疎散者すべてが自分の学校にもどった。
この頃から栃木県への連合軍進駐の知らせがあり、教育面ではとくに不安と混乱が増大した。昭和二〇年一〇月一四日に宇都宮に進駐してきた占領軍はすぐに徹底した教育内容の非軍国主義化に取り組んだ。一一月には県内学校を視察し、木刀・剣道具・戦時色の図書・地図など廃棄したかを確認している。一二月一五日にはCIE(民間情報教育局)から「国家神道・神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全・監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」の覚書がだされた。これをうけて県内各学校の「御真影の奉還」は年末の二七・八日に集中し、北高根沢国民学校はじめ、他の国民学校も二七日保管していた大正天皇、昭和天皇らの写真(御真影)を返還している。また一二月三一日には軍国主義、超国家主義、神国主義と関係のある修身・日本歴史・地理の三科目の授業停止と教科書の回収破棄が命ぜられた。こうした中で、北高根沢国民学校では新しい教育を模索して一〇月二四日には師範学校教授入江信三郎にデモクラシーに関する講演を依頼している。
翌昭和二一年一月三〇日にはCIEより奉安殿撤去の指令があった。これをうけて同年六月二九日には文部次官名で「奉安殿・御真影の撤去」について通達があり、県内では七月から八月にかけて撤去作業が行われた。北高根沢国民学校の奉安殿は七月一〇日に撤去され、阿久津村では奉安殿の撤去は七月末日迄と指示されていた。この点について七月一九日、役場は花塚校長に相談し二一日撤去したが奉安殿の鉄筋は野沢主任が調査の上、学校倉庫に保管した(昭和二〇年九月「事務連絡簿」阿久津村)。八月には花岡、上高根沢国民学校でも撤去され、上高根沢国民学校では般若塚の小堀清四郎に依頼して撤去した(宇津旭著『上高小百拾五周年誌』)。また柏崎、北高根沢国民学校の記録によると「教育勅語」、「戊申詔書」、「国民精神作興ニ関スル詔書」は、昭和二三年七月二六日に回収され返納された。花岡国民学校の記録では「沙汰書」「憲法発布勅語」「教育者ニ対シ下シ賜ヘル勅語」「青少年学徒ニ下シ賜ヘル勅語」は昭和二三年八月一四日に謹んで焼却したとなっている。
つい二、三年前まであがめ奉っていた勅語、御真影類は次々に回収され、学校に入ると真っ先に敬礼していた奉安殿は無残にも破壊されていった。教科書はなく、また黒ぬりの教科書と教育現場は混迷の度を深めていった。しかしこの混乱のなかからすべてが歩みだした。