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教育委員の公選

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 戦後、地方の教育行政の民主化を図るために教育委員会制度が導入された。文部省はアメリカ教育使節団報告が述べているように初等中等教育の教育行政については中央の内務行政から独立させ、新たな公選制による教育委員会を都道府県と市町村単位に設置し、教育の地方分権化を進めることにした。そして、教育行政の民主化、自主性確保、地方分権化を具体化するために昭和二三年(一九四八)、「教育委員会法」が成立した。これにより都道府県教育委員は七人の委員、市町村教育委員は五人の委員で組織され、五人のうち一人は地方議会の互選で、他は住民の投票で選出され、四年任期で半数ずつ二年ごとに改選することとなった。
 栃木県教育委員会は二三年一〇月五日に委員が選出され、一一月一日に発足した。市町村レベルの地方教育委員会の設置については町村の財政能力などから種々の問題が提出された。とくに地方自治体首長の団体から反対決議が出されたが、市町村も予定通り設置することになり昭和二七年一〇月五日第一回の選挙が行われ、一一月一日県下一七一町村いっせいに教育委員会が発足した。
 塩谷郡で無投票で決ったのは箒根、大宮両村と三日立候補者の辞退があった矢板、阿久津両町村で、五日に投票を行ったのは北高根沢村外八か町村となった。阿久津村では四名定員中七名が立侯補したが三名が辞退したため、無投票でそれぞれ無所属の荒井喜代治(新聞販売六六歳)・加藤歓作(農業五八歳)・土屋喜四郎(無職七二歳)・阿久津和一(農業四八歳)が当選した。また、北高根沢村では五名が立候補し選挙の結果、無所属の小堀慶造(農業五一歳)・菅又威夫(農業六七歳)・鈴木平吉(無職六一歳)・田代利男(農業五〇歳)の四名が当選した。
 その後、政治情況、教育行政の面よりアメリカ流の公選制教育委員会には批判も多く、とくに最も期待されていた財政的権限は村の財政上行使もできず、結局、昭和三一年一〇月一日より改正され、教育委員は首長より任命される制度に変更された。