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新制中学校の誕生

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 戦争が終ってわか国は民主主義のもと新しい歩みをはじめた。教育も制度そのものから改革され、六・三制が発表されたのは昭和二二年(一九四七)二月で深刻な政治、食糧危機のなかであった。苦しい財政のもと自治体が自力で新たな中学校を建設していく悩みは大きかった。一村に一校設立という栃木軍政部の指示で、学校設立場所をめぐり村内の対立も生まれ中学校設立は村政の上でも村財政の上でも至難のわざであった。多くの学校は小学校を間借りして開校したので、必然的に二部授業を余儀なくされた学校が多かった。当町域では阿久津中学校と北高根沢中学校は一応順当な歩みをはじめた。
 阿久津中学校の設立について、昭和二二年四月阿久津村長代理助役の野沢茂堯が次期村長への事務引継ぎの際、意見書を提出している。その中の「新学制度ノ実施ニ就テ」で野沢は次のようにしるしている。
 
  本年四月ヨリ実施スルコトニナリタル新学制度ニツイテハ、コレヲ本村新学制協議会ニ於テ已ニ数次ニ亘リ真剣ニ検討シタ結果、本村教育百年ノ計トシテ現在国民学校ノ本校ヲ初級中学校トシ、石末、大谷、上阿久津、宝積寺ノ各分教場ヲ各々独立ノ小学校ト方針決定シ(後略)
 
 村ではこのように新制中学校について阿久津国民学校と阿久津青年学校の敷地、校舎をそのままひきつぐことにし昭和二二年四月二八日に発足した。独立校の運営だったので、昭和二二年六月に「新制中学校の経営研究」について栃木県の研究指定校となった。新教育の何たるかも皆目分らない中で宇都宮大学の木下教授を招いて研究に没頭し盛大な発表会を行った。校舎はあっても授業では教科書も揃わない中での勉強だったが当時学んだ生徒の記憶にあるのは「新しい憲法の話」であったという。民主々義への関心は非常に強かった。先生方の戦争で生死をかけた経験から生まれた人生観が大きな説得力となって自分たちが新しい時代を築くという使命観が高められたという。
 一方、北高根沢中学校は同じ昭和二二年四月二八日、校長桧山浅吉、生徒数六〇一名、職員数一四名で開校した。学校は、戦時中建てられた国民学校高等科が使用していた木造二階建の校舎を使用して開校した。中学校では校舎増築のための資材に元宇都宮飛行学校の格納庫の払い下げをうけている。兵舎と教室の形態が甚だしく異なりだいぶ建築には苦労したという。やがて昭和二五年三月に西校舎平屋建が新築された。
 創立当時の学校生活は苦しくしても楽しいものだった。同窓会長斉藤隆之は当時を回想し次のように述べている。
 
  校庭の半分は、春にはひばりがさえずる麦畑や、さつま芋畑、秋には黄金の稲穂が稔る田畑でした。二階建の木造の校舎だけぽつんと建っていました。それでも嬉しくて白線一本巻いた制帽に兄貴のおさがりや、それさえ手に入れることができず、母親の手縫いの服の上下違う姿で登校しました。雪の降る日、草履をカバンに入れ素足で登校しました(創立五〇周年記念、きたたか特集号)。
 
 備品なども不足し、それを購入するため登校を一時間おくらせて「いなご」をとり、その益金でまかなったりした。校庭は排水が悪く運動会前日に雨が降ると、当日晴天でも全員総出で雑布で雨水をふきとる作業をした。
 何もかもない時代、教育課程にくわしい先生たちもいなく、教科書は古新聞をとじ合はせたような粗末なもので不自由だらけの教材資料、勝手の違った指導要領、その上真の意味もわからず、やたらに民主々義をふりまわす言葉や行動の中での教育は、教師にとってはやりきれない面もあったが、それでも新しい息吹きを感じさせる希望にみちたものだった。ともにゼロからの出発であったが職員と生徒の新しい教育への情熱が生みだした一体感は一歩一歩道を開いていった。

図11 阿久津中学校(昭和50年代)


図12 北高根沢中学校(昭和50年代)