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新生青年団の成立

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 敗戦により相次いで多数の青年たちが一勢に郷里に帰ってきた。戻った青年たちは敗戦の虚脱から覚めると自由な雰囲気の中で、これまで制限されていた娯楽を求めて活動した。青年団主催の素人演芸会は毎晩のように部落から部落へと巡回して行われ股旅物が人気をよんで大流行した。政府は敗戦後の精神的、道徳的荒廃から脱却するため社会教育に着目し成人教育に積極的にとりくんだ。しかし、これら施策をまたずに青年団体の自主的な組織化がはじまった。
 北高根沢村では敗戦後、間もなく青年の組織が具体化した。農業会長の小堀優造が準備委員長になり新農村建設を強力に推進するため、農村青年連盟(農青連)が昭和二〇年(一九四五)一〇月二七日北高根沢国民学校で結成式をあげた(史料編Ⅲ・一一七〇頁)。一方、阿久津村も敗戦直後から新しい動きをみせはじめた。二〇年一〇月九日に婦人会・青年団の組織についての会合がもたれ、一一月三日に結成式を挙行した。青年団組織要綱によれば、一四歳以上二五歳以下の者で組織され、役員は三〇歳までとし、全村を統一して阿久津青年団とし、大字に支部、部落に班をおいた。また本部に団長一名、副団長に二名をおき支部には支部長、班には班長をおくとしている。翌年五月一一日には青年学校よりの申し出で青年団の事務引継ぎを行っている。
 北高根沢村では農村青年連盟とは別に青年たちが青年団を組織していった。
 二一年の経済的危機のなかから、青年たちの間に新しい農業を目指す運動が現われた。箕輪清、小森敬三、村上道賢、野中徳一、鈴木房一、古口正、人見謙寿、床井実、阿久津元などが相談し、岡本実先生の指導を得て青年同志会を結成し、主として農業研さんに励むことになった。これが母体となって昭和二二年(一九四七)春、太田小学校の裁縫室で団員八〇〇名の北高根沢青年団が誕生した。初代団長には加藤恭平が選ばれて活動を開始した。当時は未だ目的意識も必ずしも明確でなく、実体として演芸会や盆踊り、運動会などが行われていたが次第に地域社会に目をむけていった(阿久津元 私記)。
 設立当時、青年団の活動は多方面にわたっていた。井沼改修工事を台新田土地改良組合より請負ったこと、宇津救命丸裏山の開墾を請負い八〇〇名の全団員が鍬をふるったことなど、きつい仕事に率先して働いた。また小原国芳先生を迎えての講演会も実施した。
 昭和二五年一二月一七日には宇都宮中央小学校で県下九郡一五〇単位団の総意を結集し代議員八七名の出席をえて第一回栃木県連合青年団大会が開催され、北高根沢村青年団長の阿久津元が団長に選出され、ここに新しい栃木県連合青年団の組織ができ上った(『栃木県連合青年団史』七六頁)。この間県連合青年団は、小平重吉知事より補助金五〇万円を獲得し、集会場に県会議事堂使用の許可を得たりした。その他、食料危機突破の供米促進や、米一握り運動、青年団主催立会演説会などの事業を行った。昭和三三年に阿久津村との合併により青年団も合併し、赤羽永光が合併初代団長に就任し、以後、歴代団長、団員の活躍で県内トップの組織にまで成長した。
 北高根沢村青年団の伝統をうけついだ高根沢町連合青年団が歩みはじめたのは三三年九月一日からで団員数は六一〇名余で新しい青年団を早く軌道にのせるため、農業祭、町民体育祭などの町の行事の運営は青年団が中心になって行われた。当時の小林町長は「これからの時代は若者を育てていかなければ」と青年団を理解し、青年団も町長の家を訪ねて話し合いが行われた。合併して三年後頃から生活改善環境運動が強化され、文化面では三四年八月には機関紙名の選考が行われ名を「ねっこ」と決定し、翌年に「ねっこ」第一号が誕生した。青年団は年を重ねるにつれ、県の芸術祭に参加し、美術賞をうけるなど活発な活動がみられた。

図14 初代県連合青年団長・阿久津元(太田 阿久津元提供)


図15 町民体育祭で高根沢音頭を踊る