ビューア該当ページ

第一次農地改革

691 ~ 693 / 794ページ
 昭和二〇年一〇月九日成立した幣原内閣の農相になったのは完全自作農主義者の松村謙三だった。彼は食糧問題を解決し、農村を思想的、政治的に安定させるためには自作農創設を進める以外に方策はないと考えていた。一〇月一一日の占領軍総司令部(GHQ)の人権確保のための五大改革指令、すなわち婦人解放、労働者団結権、学校教育の民主化、専制の廃止、経済の民主化(財閥解体)には農地改革を示す具体案はなかったが、政府では松村農相、和田博雄農政局長らが農地調整法改正法案を議会に提出し審議していた。その途中の一二月九日、GHQは「農民解放に関するGHQ覚書」(いわゆる農民解放指令)で「日本農民を封建的桎梏から解放するための農民解放及び農地改革計画」の提出を命じてきた。そこでは農地改革による自作農の育成・強化、農業会への否定的批判、農村協同運動の奨励計画などについて述べられていた。政府は農地調整法改正法案の審議を急ぎ、いわゆる第一次農地改革法が成立した。この法律は自作農創設の促進、小作料の金納化、不在地主・在村地主の保有小作地を五町歩(内地)とすること、市町村農地委員会を改組して農地改革の中心機関とすることなどを骨子としていた。
 この内容については批判が多く、保有小作地が五町歩では全小作地の二分の一が解放されず、小作農の半数は土地を所有できないとして、不在地主の保有地を認めない、在村地主の保有限度を三町歩にするなどの意見が多くだされた。日農や社会・共産両党は小作地を国が買収し、もっと徹底した農地改革を行うべきであると政府を批判していた。またGHQもこの案に批判的で、政府の具体的な実施計画を認めなかった。
 この間、新聞に政府が小作地解放へ動きだしたことが報道されると、地主たちは不安を感じ小作人に小作地の返還を求める者が現れてきた。東京から疎開してきた地主が自作農になるといって小作地を引き揚げたり、働き手が復員してきたからと小作地の返還を求めたり、在村地主が自作地を増やすといって小作地を返還させる等の動きが全国的におきてきた。「熟田村農地委員会陳情綴」にはそうした事例四、五件があり、阿久津村農地委員会でも二二年一二月までに小作地取上げの紛争八件を小作側に有利に解決したという。農林省は二〇年一二月一七日に「最近ややもすれば地主が自作を理由として強圧的に小作地を返還せしむる傾向」があることを指摘し、小作人を保護するよう通達した。しかし、土地取り上げの動きは急速にひろがって、敗戦から二一年六月までに約二五万件の土地取り上げ要求があり、うち二万三〇〇〇件が争議となっていた。

図23 小作地取り上げ激化の報道(「下野新聞」昭和21年1月20日付)