ビューア該当ページ

農業協同組合の設立

706 ~ 707 / 794ページ
 農協の設立については、農業会との関係から農林省はかなり慎重な対応をした。昭和二二年一二月の通知には、パンフレット「農業協同組合のイロハ」が農民に配られて、農協の理解が深まり、農業会解散準備会が済むまでは官公吏または農業会役員が農協の設立運動に関与しないよう周知徹底することが求められていた。さらに、二三年四月には重ねて官公吏が農協設立運動に関係して農民の自由な意思に干渉しないよう通知している。GHQも農協設立に強い関心を持っていて、旧勢力としての農業会役員の動向に注目していたようである。それは公職追放者が農協や農協連合会の理事は勿論、課長や係長にも就けないとした事にも現れていた。
 農協設立運動は日農県支部、県農青連、帰農組合、農業会、学識者などで組織した栃木県農業協同組合促進協議会が行った。協議会はポスター、チラシの配付、農協指導者講習会、農協設立事務講習会などを開催して農協の宣伝・啓蒙・普及に努めた。占領軍軍政部はそうした活動全体に深い関心を示して指導監督をし、特に農民の自由な意思が守られているか、他からの干渉がないか見守っていた。こうしたなかで、昭和二三年になると二月に北高根沢村、阿久津村、熟田村に農協設立準備会がつくられた。村々の各地区で部落集会や座談会が開かれ、農協設立の趣旨や農協の理念、規定などについて話し合われた。そして、三月に入ると次々に設立総会が開催された。北高根沢村農協(五月二九日認可)組合長には鈴木正雄、熟田村農協(四月二七日認可)組合長には斎藤忠、阿久津村農協(四月二二日認可)組合長には斎藤良一郎がそれぞれ選ばれた。
 三月一六日に県へ認可申請をした熟田村農協はなかなか認可されないので問い合わせたところ、軍政部が定款中の組合員資格を三反歩以上耕作者としているのは、零細農民を農協から締めだしていると見て認可しないということを知った。理事の鉢村忠が交渉の結果、次の総会で農林省のモデル定款どおり一反歩以上耕作者に改めることで、四月二七日に認可を得られた。農協が設立されると、農業会は解散することになり、各村農業会は清算人を選んで塩谷南部信購販組合以来の産業組合が蓄えてきた財産を農協に引き継いだ。

図26 占領軍の指示で作られた農協の啓発ポスター 『栃木県農業団体史』より