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北高根沢村の合併構想

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 町村合併計画第一次試案を受けて、北高根沢村では昭和二九年二月八日、北高根沢村議会議員協議会を役場において開催し、同試案の協議が行われ、それとともに北高根沢村独自の案が出された。それは隣接町村に呼び掛けて純農村の自治体を建設するというものであった。そして、議会側より代表者を選出し、早急に隣接町村の意向を確かめることとなった。二月一〇日熟田村・阿久津町・荒川村及び南高根沢村を訪問し、合併に対する意向の打診を行った。これに対して、二月一一日阿久津町長と議会議長が来村し、合併についての打合せが行われた。
 一方、熟田村については第一次試案が発表される前の二月二日に氏家町から町長・議会議長・常任委員長が来村し、氏家町と熟田村との合併を呼かけた。前述した二月一〇日の北高根沢村からの呼かけに対して、熟田村は村内の議会議員・各種団体の長及び学識経験者による懇談会を二月一六日に開催した。ここでの意見は、このままでゆくと氏家町と北高根沢村とに分割合併される可能性があるということになり、熟田村は、先手を取って郡南四か町村(氏家町・阿久津町・北高根沢村・熟田村)の合併を打ち出した。そして関係町村への申入れを行い、二月一七日には熟田村長並びに議会議長他数名が北高根沢村を訪問し、四か町村の合併について申入れを行った。しかし、各町村とも熟田村の郡南四か町村合併の考え方は受け入れられなかった(『栃木県市町村合併誌』)。
 この間、二月一一日付で北高根沢村は村長古口五郎平名で町村合併審議委員宛に、「北高根沢村町村合併審議会試案について」と題して、純農村建設のため四か町村に合併の呼び掛けを行うことを申し入れた。その合併案の範囲としては、南高根沢村の八ツ木・給部・大塚・五ケ村・芳志戸の一部、荒川村の八ケ代・福岡・芦生沢・鴻野山。熟田村の飯室・文挾・伏久・柿木沢・八方口・鍛冶ケ沢。そして阿久津町の石末であった(史料編Ⅲ・一九一七頁)。
 これらの地域は、農業を主体とした地域でまさに純農村の行政体を目指した合併案であり、県が示した第一次試案とは大きく異なるものであった。
 四か町村合併で動きだした北高根沢村は、同年三月五日に再び議会議員協議会を開催し、県の地方課から町村合併促進法及び町村合併計画第一次試案についての説明を受け、その後二月一〇日に実施した隣接町村訪問の状況を発表したと『栃木県町村合併誌』にはあるが、同協議会に出席した県担当者の復命書には、試案の説明後ただちに「北高根沢村と熟田村の一部合併について」が議題にあがっていた。これに対して、同協議会は編入について歓迎する意向を示したという。
 これが事実とすると、たかだか一か月に満たない間に、急転回をしたことになる。これについての経緯を示す史料は、今のところ見当らない。
 なお、北高根沢村の四か町村合併構想については、その後の動向も不明であるが、四か町村のうち南高根沢村は祖母井村・水橋村との合体合併で芳賀町となり、荒川村は下江川村と合併し南那須村となるなど、北高根沢村・熟田村・氏家町との合併と同じ時期に合併していることから、四か町村合併の純農村建設構想は断念されていったものと思われる。