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阿久津村の町制施行

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 阿久津町は、明治二一年(一八八八)の町村制発布により翌年上阿久津・中阿久津・宝積寺・大谷・石末のそれぞれの村が合併して阿久津村が誕生した。近世から上阿久津は鬼怒川の河川交通の要として阿久津河岸が栄えた。しかし、東北線の開通により物資輸送は船から鉄道へと移っていった。その後、東北線の路線変更にともない、三二年に宝積寺駅が開業し、阿久津村は芳賀・南那須・塩谷三郡の物資の集散地として、再び脚光を浴びるようになった。
 そして、阿久津村は合併促進法が施行される以前の二八年四月一日に町制を施行し阿久津町となった。阿久津村の町制施行については、当初昭和六年に提唱されたが、時期尚早とのことで実を結ばなかった。その後も幾度となく町制施行が唱えられたが、実現には至らなかった。ここに来てようやく二〇年の宿願が達せられたのである。
 町制施行に当たっては、先に県知事名で二三年段階で、町となるべき普通地方公共団体が備える要件として、左記の点が挙げられていた。
 
  (一)人口が五千人以上有すること。
  (二)中心地の戸数が全体の四割以上であること。
  (三)商工業などに従事する者が全体の人口の四割以上であること。
  (四)商工業などに従事する者が増加の傾向にあること。
  (五)公民館・図書館・医療施設など文化保健施設が設けられていること。
 
が示された。
 こうした要件を満たした阿久津村は、二八年二月一〇日の村議会の議決を経て、一二日県へ町制施行の申請書を提出した。しかし、県が中心市街地の戸数の算定方法に疑問があるとした内容が翌日の朝日新聞に掲載された。これも結果的には問題がなかったとみられ、第四〇回県議会に上程され、町制施行は三月六日に正式に議決されたのである。
 ここで問題となったのは町制施行に絡んでの町名変更であった。阿久津地区の住民は「阿久津町」を、宝積寺の住民は「宝積寺町」を要望していた。これについて、町名変更についての議論が各地で行われたようであるが、意見のまとまりはみられなかった。
 こうした中で、「宝積寺町実現期成同盟」は町長宛の陳情書の中で、「宝積寺町」とする理由として、郵便局・電信電話局・駅名において「宝積寺」の名が付けられ、行政機関・金融機関全てが宝積寺地内にあり、阿久津村の政治・経済・文化の中心地となっていることから、町名として「宝積寺町」を強く要望した。
 しかし、再三の協議が重ねられたがまとまらず、ついに議会において決選投票を行い一票差で「阿久津町」と決定した。このことは以後においても尾をひくことになった。
 こうして、二八年四月一日阿久津村は六四年間の村制から阿久津町として新たな一歩を踏み出した。町制施行祝賀式は四月五日午前一〇時より阿久津中学校で挙行された。

図28 阿久津町町制施行


図29 町制施行一周年記念大会で挨拶する野沢茂堯町長