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難航する合併協議

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 北高根沢村と阿久津町との合併については、すでに二八年の町村合併促進法の公布にもとづいて県町村合併促進審議会により、両町村の合併試案が提出されていた。
 その後、北高根沢村の四か町村合併構想を経て、熟田村の氏家町・北高根沢村への分離合併による第一次の合併が行われた。しかし、この合併は過渡的なものであり、最終的には県の審議会が提示した北高根沢村と阿久津町の合併が残されていた。
 二八年五月二日に栃木県より「栃木県町村合併計画」が示された。先の「町村合併計画第一次試案」を経て、最終的な答申であった。この中で、町村合併に対する世論の高まりとともに、他方では町村合併の真義が失われている観もあり、合併のあるべき姿を示す必要があるとして「栃木県町村合併計画」が示されたが、これは県主導型合併の色彩が濃かった。
 そして、栃木県は町村合併計画を決定すると、「この計画は、県の合併計画として最終的なものであり、確定したものであるから、今後の町村合併はすべてこの計画の定める線に添って、実現されるべきものとして、強く勧奨するものである。」として、まさに強い態度で臨んだ。
 こうして、熟田村の編入合併後、県の積極的な指導もあり、県の試案にもとづき北高根沢村と阿久津町の両議会は一一名の代表者を選出し、それぞれ合併調査委員会を編成した。
 北高根沢村は、二九年八月二四日第一回の合併調査委員会を開催した。ここで阿久津町とは合体合併で進める旨を確認し、さらに町名と庁舎の位置については、現在の北高根沢村のとおりとすることが話し合われた。
 そして、九月四日阿久津中学校において、北高根沢村合併調査委員会と阿久津町議会議長との間で、合併についての話合いが持たれた。席上まず阿久津町長の現状維持、つまり合併はしないという姿勢に対して、阿久津町議会は合併は住民と話合いにおいて決定するものであって、一人町長が独走することはないということで議事が進行された。双方が合体合併を基本線とし、町名については北高根沢村の腹案として「高根沢町」とすることが提案された。一方、庁舎の位置は阿久津町に置くという、それぞれの意見が出され、これらについては、それぞれ持ち帰り協議するということになった。
 しかし、三か月間にわたり精力的な協議が持たれたが、町名・役場の位置等で意見の調整がつかなかった。さらに、阿久津町においては町長と議会との意見の相違がみられた。この背景について、当時の新聞は、阿久津町長が合併反対の立場を取り続けることについて、町長は反対の理由として、合併反対は住民の意志であるということと大谷・上阿久津両地区が氏家町編入を強く希望していることなどの理由をあげているが、町長の真意は図りかねるとした。一方で議会側は議長を中心として合併に向けて独断的な行動が多く、このあたりに対立の要因がみられた。こうして、調整することが困難となり、そのため合併問題は自然解消の状態となってしまった。
 町村合併促進法が三か年の時限立法として効力を失うという三一年一〇月一日現在で、県内では試案にもとづき九割程度の合併が行われていた。しかしながらこの時点においても、足利郡では富田町・菱村、下都賀郡では国府村・国分寺町・野木村、那須郡においては湯津上村・小川町、そして塩谷郡において、船生村・玉生村・大宮村・栗山村とともに阿久津町と北高根沢村の合併が残されていた。
 こうした状況の中で三一年もおし迫った一二月二四日、県は北高根沢村に対して阿久津町との合併計画の策定を示し、合併勧告をすることを示唆した。そして、一二月二七日付で県は県知事名により新市町村建設促進法第二八条第一項により、阿久津町と北高根沢村の合併に関する勧告を出した。翌三二年の一月九日には、北高根沢村と阿久津町、そして県の三者合同の第一回目の会議が持たれ、席上県は合併勧告に応じない場合は、経済的援助はできないと迫った。併せて、合併は合体合併とし、その後要望のある大谷・上阿久津の氏家編入による境界変更という手順で進めたいと述べた。阿久津町側はあくまでも合体合併とし一本化できるよう努力するとし、北高根沢村側は大谷・上阿久津の問題が解決してからの合併を望んだ。
 さらに、県は合併の進捗状況が思わしくないため、三月八日に両町村の執行部と正副議長を県に呼んで、協議を重ねた。さらに両町村長並びに正副議長による打合せが、三月一三日にも行われた。阿久津町長からは合体合併の意見の調整がつかず、編入合併に対する住民投票も避けたい旨の発言があった。さらに県は三月二五日に再度総務部長名で地方課への出県を両町村に求めた。
 北高根沢村においては、三月二七日に議会議員協議会を開き、合併についての村の基本方針を決定するための協議が行われた。議論が伯仲するなか、焦点となったのは大谷・上阿久津の氏家編入の可能性と編入する場合の時期であった。そして、最終的に「北高根沢村は阿久津町が全町合併する場合は合体合併とし、大字上阿久津、大字大谷の二大字を除外して合併する場合は編入合併とする」という方針を決定し、合併承認書を満場一致で可決確定した。その後も、北高根沢村は促進委員会の開催、県の町村合併調整委員との懇談などを実施していたが、七月一二日に先の議会議員協議会で可決した承認書を議長名で県知事宛に送付した。承認書には「北高根沢村は阿久津町大字大谷同大字上阿久津の帰趨を確認して阿久津町と合併するものとする」と修正が加えられた。四か月近くも県への提出が遅れた理由は定かではないが、県との調整とともに阿久津町との駆け引きがあったものと思われる。
 しかしながら、合併は思うように進まず、八月に両町村の会合が持たれたが、阿久津町側は調整が進み合体合併で行くと述べたのに対して、北高根沢村側はますます二大字の氏家編入の意志が強くなったと判断し、合体合併に疑念を抱いた。
 一〇月八日の北高根沢村の合併促進委員会においても大字の動向が問題とされたが、「北高根沢村は阿久津町と協議し本村と阿久津町を廃しその区域を以って新たなる町村を建設することを基本方針とする」ことが全員一致で承認され、後日議会にて承認された。それとともに、委員会の意見として町名の決定権については必ず北高根沢村側が確保することがつけ加えられた。
 その間、県の強引な合併計画に反対する一五町村の町村会議員・反対同盟の代表を中心として「町村合併民主試案確立連盟」が県内に結成され、その中に阿久津町も参加をしていた。
 また、阿久津町側では三〇年四月一日より阿久津町を「宝積寺町」と改称することを三月議会で決議するという事態が起こった。これは、町村制施行の際に村を二分した問題であり、再び表面化したのである。その後町当局はすぐに宝積寺・中阿久津・上阿久津・石末において地元の代表者を集めて懇談会を開催した。ここでの意見は再議に付すという結論でまとまった。これにより臨時議会が開催され、宝積寺町への改称は改められ、結局阿久津町のままとなったが、これに対する非難が起こり、七名の議員が辞表を提出するということまで起こった。