そして、一一月には両町村合併促進委員会がそれぞれ北高根沢村・阿久津町で開催され、県との協議を経て次の結論を導きだした。
一、町名は北高根沢村側に委任する
二、新庁舎は交通・通信その他の事情及び新町の発展性を考慮して、阿久津町宝積寺地内に置くものとし、昭和三三年度予算に必要経費を計上して、早急に建設するものとする
三、仮庁舎の位置の決定は県に委任する
四、両町村は昭和三二年一二月一〇日に議会を開会し合併申請の議決を行うものとし、北高根沢村は一二月五日までに町名を定め阿久津町に通知する
こうして、新町名を「高根沢町」とし、三三年三月三一日両町村の廃庁式が行われ、翌四月一日高根沢町が発足し開庁式が挙行された。合併時の人口は二万三九八八人・戸数四、〇八一戸・面積七二・二四平方キロメートルとなった。
官公署としては、高根沢町役場と仁井田支所を置き、郵便局は宝積寺・熟田・北高根沢郵便局の三局となった。警察署関係では氏家警察署阿久津部長派出所のほか駐在所が八か所、中学校二校・小学校一二校、公民館は分館を含めて五館となり、他に診療所・矢板高校高根沢分校・宇都宮法務局熟田出張所などがあった。
高根沢町の発足後、境界変更の論議が再熟し、合併の年の五月には大谷氏家・上阿久津氏家の合併期成同盟会により、また大谷青年層代表により、それぞれ氏家町編入の陳情書が町議会に提出され、住民投票実施を要望した。町では、境界変更問題についての交渉委員会を七月一七日・二〇日・二八日に開催し、住民投票をなるべく避ける方向で話合いが持たれた。そして、実施する場合は、町自体でなく県により実施する方針をとったが、県は早急な実施を迫った。
これに対して、町では町議会を中心に三三年一二月七日大谷小学校校庭において、二、五〇〇人の町民が集まり、境界変更住民投票反対の町民大会が開かれ、さらに「高根沢町分町反対期成同盟」が結成され、氏家町・県当局に対して抗議が行われた。
しかし、高根沢町が発足した翌三四年二月二二日に大谷・上阿久津の二地区の境界変更を決める投票が行われた。その結果、投票率は大谷地区九九・三パーセント、上阿久津地区が九八・五パーセントという極めて高い投票率を示し、大谷は投票総数七〇四票のうち氏家町合併賛成が四六五票、反対が二三七票となり、有効投票の三分の二の四六八票に達すれば分離し、氏家編入であったが三票少なく高根沢町残留となった。一方、上阿久津は有効投票六〇三票のうち氏家町合併賛成が四八六票、反対が一一七票で、有効投票の三分の二の四〇二票を越え氏家町編入となった。
また、芳賀町上鷺ノ谷地区の一部編入の問題については、三四年八月の議会議員協議会において議題となり、総務委員会において進めることで一致し、以後芳賀町との協議を重ね、一一月の同協議会において経過報告があり、引き続き町長・正副議長・総務委員長による特別委員会を設置し、詰めの作業に入った。
こうして、翌三五年二月一五日、臨時議会が召集され、上鷺ノ谷境界変更が議題とされた。この問題は芳賀町の理解によりスムースに運び、議決権を持つ県議会も理解が得られるとの見方で、全会一致で可決された。この日は、芳賀町議会も招集され、同時に議決の運びとなった。これにより三五年四月一日、芳賀町大字上鷺ノ谷の一部(七戸三六人、三五ヘクタール)が本町に編入された。
一方、北高根沢村と熟田村との合併時より懸案となっていた高根沢町伏久の一部地域の氏家町編入についても、同じ年の四月一日より実施する旨、栃木県告示第一四六号にて告示された。
なお、庁舎位置については、合併時になるべく早い時期に旧阿久津町宝積寺地内に置くとされたが、地域間の思惑の中で議論を要するところとなった。敷地選定委員会では、庁舎建設に当たって、旧北高根沢地区の人々に配慮して、旧庁舎を支所として使うこと、石神―赤堀間の産業道路の開発、台新田道路の改修などとともに、委員会記録には「宝積寺駅を高根沢駅に改名すること、東口をつくる」という項目が記されていた。結果的には旧北高根沢と阿久津の境界である石末地内に落ち着き、これにより駅の改名もなくなった。役場庁舎については、三五年五月に敷地が決定し、敷地の購入がおこなわれた。そして、三七年に役場建設委員会が組織され、一〇月一〇日に工事が着手された。そして、約一年間をかけて翌三八年九月一二日開庁の運びとなった。
図30 高根沢町の合併祝賀
図31 初代町長小林弘美
図32 大谷・上阿久津住民投票反対集会の会場