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経済復興と食糧増産

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 農地改革期の社会的変動と食糧危機の中で低米価・強権供出の嵐のような時期を過ぎた時、村の社会構造は大きく変わっていた。これまで村の大半を占めていた小作階層の人々は自作農か自小作農となり、高率小作料と地主・小作関係とで結ばれていた「封建的」な村の社会関係から原則的に自由となった。しかし、旧地主層はこれまで村長、村会議員、農会役員などの村の重要な役職をしめ、リーダーとしての経験も豊富だったから、そうした点での急激な村政のリーダーの交代という変化は高根沢地域にはなかったが、村人の意識の面ではしだいに平等な人間観が浸透していった。国内のこうした「自由」「民主化」の雰囲気は昭和二五年(一九五〇)六月の朝鮮戦争勃発で大きく変わった。占領軍は「反共産主義」の旗を掲げ、日本を東西対立の冷戦体制の中へ引き込んだ。そして日本経済が朝鮮戦争による米軍の軍需需要いわゆる「特需ブーム」でわきたっているなか、昭和二六年(一九五一)年九月対日講和条約と日米安全保障条約が結ばれ、日本はアメリカの反共世界戦略の一翼を担うことになった。
 この時期の政府は「経済自立」政策をたて、戦争中に壊滅した重化学工業を復興・発展させる産業基盤の強化を図っていた。それは、石炭、鉄鋼、造船、化学肥料、電力という基礎部門へ設備改善と新技術導入のための資金・資材を集中的に投入する政策であった。
 この自立政策の中で農業と農村が担ったのは、米麦を主に食料を増産し、自給力を高めることだった。昭和二五から二七年の食糧自給率は穀物全体で八〇パーセント、大豆五〇パーセント、牛乳・乳製品八〇パーセントと現在とは比較にならない自給率の高さではあったが、それでも当時としてはかなりの部分を輸入に依存していると考えられ、貿易赤字の原因とされていた。だから、食糧増産政策の背景には次のような事情があった。
 
  (イ)食糧危機は緩和されたとはいえ、輸入に占める農産物の割合は五〇~六〇パーセントであり、これが輸入超過の大きい原因となって日本経済に外貨不足をもたらしている。これを解決するには食糧増産が不可欠である
  (ロ)国内農産物価格は占領期から輸入農産物価格より低く抑えられていたので、輸入農産物には価格差補給金をつけて安く販売していたが、これが財政を圧迫する要因となっている。そこで、国内農産物価格を輸入農産物価格並に引き上げて、農民の生産意欲を高めて増産させ、輸入を減らし、そこに生じる外貨と財政資金の余裕を重要産業基盤強化へ集中的に投下したいという強い要求があった。
  (ハ)都市工業の復興が始まったとはいえ、農村には二、三男を中心に人口過剰の状態が続いていた。彼らの就業確保のためにも食糧増産政策は有効だとされていた。

図33 米づくりの実験深耕・直播(昭和29年)


図34 動力耕耘機の競技会(昭和30年頃)


図35 稲刈り機の実演風景