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食糧増産の三つの柱

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 食糧増産政策は主として三つの側面から推進された。第一は農産物価格の引き上げで、それは米でいえば、昭和二七年から始まった生産者米価と消費者米価を区別する米の二重価格制と基本米価算出に勤労者所得上昇率を取り入れた所得パリティ方式を採用したこと及び基本米価に各種の奨励金(早期供出、超過供出、供出完遂奨励金)を加算するという方式であった。第二は土地基盤を改良整備する国・県・団体営の用排水・圃場整備事業、農地集団化のための土地改良事業であった。これは農林予算で見ると昭和二五年の六・三パーセントから三〇年の一四・二パーセントに増大している。第三は農業技術の進歩と新技術導入への補助金政策である。特に本県では昭和二八年の冷害をきっかけにして稲の早期栽培が奨励され、その際普及した保温折衷苗代による健苗の育成が、米の収量の増大と安定に大きく貢献した。また、農薬・化学肥料の施用、動力耕耘機の使用も始まってきた。特に除草剤2-4D、二化螟虫除去の有機燐剤パラチオンなどの農薬の使用は農家労働の軽減や病害虫除去に効果があったが、同時に水と土壌の汚染をもたらしてホタル、トンボ、タニシなどの減少という生態系への深刻な被害と現在の環境ホルモン問題を引き起し、近年の有機農法復活の契機ともなっている。さらに、生物化学と育種学の発展がもたらす品種改良の成果などもあって、農業生産力は急速に増大してきた。
 そして、農産物の商品化率は昭和二五年の五六パーセントから三〇年の六四パーセントへと高まったが、その中心は米と麦で、農協が集荷・販売を取り扱っていた。それ以外の青果物・畜産製品は農協以外の仲買、卸商などの手で市場へ出荷されるものも多かった。
 このような食糧増産政策の中で、栃木県は昭和三一年(一九五六)年に「栃木県農業振興基本計画書」を作成した。この計画書は国の「新農山漁村建設総合対策要綱」にそって、適地適作、生産設備の整備、経営と技術の改善により農家の所得を増やし、生活を改善し魅力に富んだ農村を建設しようとするものであった。また、この計画は零細経営のままでの農業の発展には限界があるので、農民の協同でより高い生産性と市場性のある農業をつくりあげることも目的としていた。