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米と酪農

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 昭和二八年の冷害は「米どころ」として、米単作地帯に甘んじていた農民に多くの反省を生み出し、各村に新しい動きが現れてきた。水田酪農はその早い取り組みの一つだった。新農村建設がスタートすると、計画に従っていろいろな取り組みが始まった。その第一は土地基盤の整備である。三九年までに実施した水田の暗渠排水面積六九〇町歩(二〇パーセント)、区画整理・交換分合面積一、六二七町歩(四五パーセント)で湿田の土地改良はまだ不十分であった。しかし、三三年から始まった秋落ち田の改良は進んだ。町費で小型と大型トラック各一台を購入して、町内五か所で採取した優良な鉄分を含む山赤土を秋落ち田へ客土するとともに、合理的施肥の方法を有線放送、町広報などで知らせて実行してもらった。三七年には終了して長年悩まされていた秋落ち田が解消した(鈴木源男著「全町水田土壌一筆調査と耕土培養事業をかえりみて」、『農事改良三〇年のあゆみ』所収)。第二は米麦作の技術改善である。昭和二三年に農業改良普及所が開設されると、各地区に農業技術普及委員会、農業改良推進員などが設置されて、農事に関心を持つ農民たちは農事研究の機会が増えてきた。前に述べた「農業同志会」の青年たちは一人一人が地域の核となって農事研究会を組織していったが、早かったのは昭和二二年の上高根沢南部農事研究会(農研)と二四年の東高谷農研である。東高谷農研は仁井田駅前にできた農業改良普及事務所の阿久津明普及員が産婆役になって、南方各地や内地から復員してきた青年たち・荒井清、荻野目健、鈴木正男、鈴木順ら一〇名が作った。水稲原種採取圃の担当をしたり、麦の薬剤散布を共同でしたりして会員を増やし、常に水稲栽培技術と水田酪農に付いての活発な研究と実践活動で地域をリードしていた。昭和三三年の合併時には北高根沢に三四、阿久津に一三の農研クラブがあり農事研究の担い手となっていた。
 また、この頃町の産業課と農業改良普及所の指導で4Hクラブが作られ農事研究が盛んになったが、青年団活動なども盛んになってくると構成メンバーが重なってくるようになり昭和三七年に青年団の産業部と4Hクラブを合併した。4Hは年齢二二歳以下の男女が会員になって県、郡の研究会、講習会などに参加していた。
 新農村建設事業では東部だけでも共同使用の動力耕耘機一〇〇台、風力乾燥機三〇〇台の導入、籾摺機、製縄機各一〇台を持つ共同作業所一〇棟、個人使用の堆肥舎一〇〇棟の建設をし農作業の機械化と共同化を推進している。こうした農研クラブの活動や事業の成果もあって表11で分かるように昭和四〇年には水稲の平均反収は三七四キログラムとなり、昭和二九年の平均一九七キログラム弱(北高根沢村)の一・九倍に上昇した。
 第三は経営を多角化して二八年冷害で米単作経営が受けた被害を繰り返さないということである。多角化は酪農の採用が早くから成果を上げていた。三三年の県三和酪農協発足に参加し、三七年には鈴木順が理事に就任した。三四年からの新農村建設事業では太田、桑窪、東高谷に集乳所が建設され、部落共同使用のサイロ一、三〇〇台、サイレージカッター一五〇個の購入、豚・緬羊種付け施設、共同放牧場の建設を行った。そして、三九年には乳牛飼養戸数は二五五戸、頭数七九五頭、販売乳量約二、六〇〇トンにまでなったが、戸数はこの年が最も多く以後減少に向かう。そして、四〇年代半ばから急速に戸数は減少するが、残った酪農経営は規模を拡大していき四九年には飼育戸数一〇一、頭数一、二四六、販売乳量約四、〇〇〇トンとなった。和牛肥育面では共同畜舎一〇棟、養鶏では共同育雛所一〇棟などを建設して畜産の共同化を図った。

図36 昭和28年の冷害でイモチ病になった稲を見る農婦(柳林)
 

表11 高根沢町における水稲10a当たりの収量 (単位:kg)
昭333435363738394041
高根沢町328354388356420366377374398
県平均313341382346404355350340376
全 国379391401387407400396395400

「栃木の水稲」(社)栃木農林統計協会 昭和41年より

 

図37 大谷天沼農研クラブの麦の病害虫予防作業(昭和30年)