また、この頃町の産業課と農業改良普及所の指導で4Hクラブが作られ農事研究が盛んになったが、青年団活動なども盛んになってくると構成メンバーが重なってくるようになり昭和三七年に青年団の産業部と4Hクラブを合併した。4Hは年齢二二歳以下の男女が会員になって県、郡の研究会、講習会などに参加していた。
新農村建設事業では東部だけでも共同使用の動力耕耘機一〇〇台、風力乾燥機三〇〇台の導入、籾摺機、製縄機各一〇台を持つ共同作業所一〇棟、個人使用の堆肥舎一〇〇棟の建設をし農作業の機械化と共同化を推進している。こうした農研クラブの活動や事業の成果もあって表11で分かるように昭和四〇年には水稲の平均反収は三七四キログラムとなり、昭和二九年の平均一九七キログラム弱(北高根沢村)の一・九倍に上昇した。
第三は経営を多角化して二八年冷害で米単作経営が受けた被害を繰り返さないということである。多角化は酪農の採用が早くから成果を上げていた。三三年の県三和酪農協発足に参加し、三七年には鈴木順が理事に就任した。三四年からの新農村建設事業では太田、桑窪、東高谷に集乳所が建設され、部落共同使用のサイロ一、三〇〇台、サイレージカッター一五〇個の購入、豚・緬羊種付け施設、共同放牧場の建設を行った。そして、三九年には乳牛飼養戸数は二五五戸、頭数七九五頭、販売乳量約二、六〇〇トンにまでなったが、戸数はこの年が最も多く以後減少に向かう。そして、四〇年代半ばから急速に戸数は減少するが、残った酪農経営は規模を拡大していき四九年には飼育戸数一〇一、頭数一、二四六、販売乳量約四、〇〇〇トンとなった。和牛肥育面では共同畜舎一〇棟、養鶏では共同育雛所一〇棟などを建設して畜産の共同化を図った。
図36 昭和28年の冷害でイモチ病になった稲を見る農婦(柳林)
表11 高根沢町における水稲10a当たりの収量 (単位:kg)
昭33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38 | 39 | 40 | 41 | |
高根沢町 | 328 | 354 | 388 | 356 | 420 | 366 | 377 | 374 | 398 |
県平均 | 313 | 341 | 382 | 346 | 404 | 355 | 350 | 340 | 376 |
全 国 | 379 | 391 | 401 | 387 | 407 | 400 | 396 | 395 | 400 |
「栃木の水稲」(社)栃木農林統計協会 昭和41年より
図37 大谷天沼農研クラブの麦の病害虫予防作業(昭和30年)