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生活改善運動

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 農業改良普及所に生活改善普及員が置かれたのは昭和二四年、すぐに取り組まれたのが改良かまどの設置で、昭和二五年ころから普及しはじめた。二六年には生活改善協力員が北高根沢村に七人置かれた。二八年からは生活改善普及事業を重点的に推進する生活改善実践部落の県指定が始まり、三〇年に花岡西下部落と桑窪中部落が期間四年で指定された。三一年六月花岡西下では農繁期に二週間の季節保育所を県道沿いの薬師堂で開設し働く母親たちを支援した。これは他の部落にも広がり、石末宿、宝積寺下、中阿久津、桑窪中でも開設された。三六年には宝積寺に町立保育所第一号ができた。農家も朝夕の送り迎えで、一日安心して働けるからと子供を入所させ、たちまち定員をこえた。保育所は第二~第四まで次々に作られて農家の主婦、若妻の負担を軽くし、農業労働や家事労働を支えていった。花岡では食生活改善や女子4Hクラブ活動など幅広い活動をした。
 桑窪中では農繁期保育所の他、桑窪若妻会を組織して、衣食住の生活技術の講習、子供の教育、集落の衛生・環境問題などに取り組んで、座談会を持つなどの活動をして周辺部落に影響をあたえていた。
 昭和三三年までにできた婦人の生活改善グループは六つあった。農研クラブ婦人部の中郷西朝日おしどり農研婦人部、中郷中稲穂会、吹上みどり会、向原あけぼの会、花岡若妻会、桑窪若妻会である。こうした会では季節ごとの料理研究と食生活改善講習会、家計簿記帳の研究会などが主な活動の内容だった。昭和三七年五月、一四の生活改善クラブ・若妻会と梨の生産出荷組合婦人部が連携して親睦、農家生活の向上、農業発展をめざして高根沢町生活改善クラブ協議会が発足した。初代会長は梨組合婦人部長安波ツギ(飯室)、副会長には落合ハツ(下宝積寺)、板橋絹子(大谷)がえらばれた。
 昭和三八、九年頃から大手企業や下請企業の進出で工場建設の工事や土木工事が増えて農家の男子の農外労働が多くなり、婦人の農業労働従事が増えてきた。婦人グループの中には田植え、稲刈りの共同化を行うところや、農繁期の共同献立による食品の共同購入を実施して、婦人の肩にかかる労働の重さを少しでも合理的に軽減する工夫をしている。

図40 生活改善運動で模擬結婚式