一 自立経営の育成に役立てるため、農地権利取得の最高面積制限を適用しない
二 農業生産法人の制度を設け、協業による大規模経営が成立する道を開く
三 農地流動化に役立てるため、農協による農地の貸付、売渡しを目的とする信託制度を設ける
(暉峻衆三編『日本農業史』二九七頁)
しかし、事態は予測したようには進まなかった。農家労働力は昭和三〇年(一九五五)から四〇年(一九六五)の間に四〇三万人減少し、農家数も三八万戸弱減り、農村では青壮年労働者不足から「三ちゃん農業」という言葉が流行語になった。昭和四〇年で見ると二ヘクタール以上の農家は三〇年より四万五〇〇〇戸増えて二五万四〇〇〇戸となったが、農家総数の七三パーセントを占める一ヘクタール未満農家の八七パーセントまでが兼業農家として村に残った。
米作先進地と位置づけられている高根沢町でも事情はよく似ていた。表3・4で見ると昭和三五~四五年の間に農家数は一一四戸減っているがその内訳を見ると、一ヘクタール未満層で六二戸、一~二ヘクタール未満層で九九戸減って、二ヘクタール以上層が四七戸増加したからである。専業農家は三五年の一、六二八戸から僅か三一七戸に減っている。一〇年間で専業農家率は五六パーセントから一二パーセントに減った。兼業農家は三五年の一、三〇二戸から二、四九九戸に増えたが、そのうち農業を主にする第一種兼業一、四六七戸、農業を従とする第二種兼業は一、〇三二戸である。従って、基本法が育成したい自立経営を営める二ヘクタール以上層の増加もみられたが、同時に基本法が期待した離農による農地の流動化はあまり起きず、二ヘクタール以上層九四四戸の三分ノ一程度しか専業農家に止まっていない。
このような急激な農家経営の変化の原因は次のように説明されている。
一 相対的に安い麦類、飼料作物、大豆、果実などの農産物や肉類など食品類の輸入が急増して、日本の農畜産物は価格の引き下げを迫られ、農業が引き合わなくなり兼業がすすんだ
二 農業は土地基盤整備、耕耘から脱穀・調整の機械化、装置化など多額の資金が必要な産業に転化し、資金を得るための兼業や負債を返済のための兼業が増えた
三 耐久消費財(TV、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、ステレオ等)の普及、教育水準の上昇、都市と農村の生活水準の平均化などで農家の現金支出が増え、兼業で補わざるを得なくなった
本町のような米作地帯でも道路の整備とモータリゼイションが進む過程で生活の都市化が進行して、この説明どおりの状況がうまれていた。昭和三七年(一九六二)二月の町広報「たかねざわ」の「これからの農業をどう考えるか」という座談会で町内からの出稼ぎの多いことが問題となった。その目的を調べると、「農業再生産のため」一割、「テレビ・オートバイ購入のため」二割、他は「生活に困って」と「隣が行くからだ」という。自立経営の出来る農家の当主や後継者が多く、農研クラブの会合も出来ないことや水稲一本の経営者が多いことが問題だと話し合われている。二、三町歩の経営者の出稼ぎには批判もでていた。
本町は米単作から多角的農業へ転換しようとしていた時期に麦類、酪製品などが輸入農産物により打撃を受けたが、米価は年々上昇していたため新しい農機具の購入意欲も高かった。表5で見るように昭和四五年(一九七〇)の農器具所有状況はトラクター・動力耕耘機は約二、四九三台、農家の約八九パーセント、動力防除機は一、八九五台、農家の六七パーセントと高い。この数字はかなり零細な兼業農家も高価な農機具を所有したことを示している。その後の動力田植機、自脱型コンバインの普及状況をみても数字的には専・兼業を問はず一ヘクタール以上農家のほとんど全部がこれらの農業機械を所有していることになる。明らかな過剰投資であろう。
表3 経営耕地規模別農家数の推移
「高根沢町の農業」(昭和63年高根沢町発行)より
表4 専業・兼業別農家数の推移
「高根沢町の農業」より」追加
表5 主要農用機械の推移
「高根沢町の農業」より」追加