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米あまり時代

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 高根沢町が米一割増産運動の成果をあげて、米作技術の水準を高めていたころから、米過剰生産の時代が幕を開けた。米生産の過剰が発生したのは、米作りにかけた近代日本農業の伝統のうえに、戦後の食糧不足の経験から米の増産を進めた農政があった。それを加速する働きをしたのが、米の高値・安定であった。政治米価といわれたように、米価はしばしば農民諸団体と政府・与党との取引に使われ「政治決着」によってきめられ、相対的に高値に安定していた。米を作っていれば生活も安定するという安心感が農民の側にもあった。また、政府が農産物自由化を受け入れたので米以外の農産物は価格が低迷していたこともあった。さらに土地基盤整備は農政の目玉として重点的に実施されていたので、品種改良の成果や、農薬、化学肥料の普及という技術進歩とあいまって米の反収は昭和四〇~四五年平均四一七キログラムから昭和四六~五〇年平均四四七キログラムへと増加し、総収穫量は一,三〇〇万トン台から一,四〇〇万トン台となった。他方、米の一人当り消費量は昭和三七年の一一八・三キログラムをピークとして年々低下し四五年九五・一キログラム、五五年七八・九キログラムになっていた。食糧管理特別会計の赤字は昭和四五年には三,六〇〇億円に達するようになり、その対策として四三年産米から米価据え置き、四五年から稲作減反(生産調整)政策がとられることになった。かくて日本の農業・農政・農民は「米余り」という新しい状況に対処する、新たな対応を迫られたのである。
 高根沢町では米過剰の中で、昭和四八年農業振興地域の指定による地域整備計画をたて町内を中央水田地区、鬼怒川沿岸地区、東部台地地区にわけて農業近代化施設の整備を進めてきた。そして、それと並行して県営圃場整備事業が始まった。最初は昭和四七年度(一九七二)~五一年度(一九七六)に実施された高根沢第一土地改良区(九二四・八ヘクタール)で、次いで第二土地改良区(一、一七八・四ヘクタール、昭和五一~五七)、釜ケ淵土地改良区(二三八・二ヘクタール、昭和五三~五九)、第三土地改良区(九七一・七ヘクタール、昭和五七~六三)と行い全部が終了したのは平成九年であった。
 整備事業を実施中の昭和五三年(一九七八)から九年間水田利用再編対策が実施され、減反と転作が実施された。その実施状況は表6のようである。五三、五四年度は耕地面積の二〇パーセント台だが五五年から三〇パーセント台になり、六二年には四七パーセントに達した。本町の農業は転作の進め方を含めて新たな農業の在り方をもとめていった。

表6 転作面積等の推移
「高根沢町の農業」より