成田新空港の建設にともない、空港敷地となる下総御料牧場は、移転を余儀なくされた。その移転先として本町及び芳賀町に決定し、業務が引き継がれることとなった。
ここで下総御料牧場の歴史について触れておきたい。
下総御料牧場は、その前史として下総牧羊場の開設がある。明治政府の殖産興業政策の一環として、ここでは綿羊の飼育繁殖と畜産の改良をその目的とした。そして、後には畜産・耕作技術の養成機関として、多くの指導者を輩出する。
牧羊場の用地選定に当たっては、明治八年(一八七五)大久保内務卿による牧羊場設置の上請に基づき、牧羊開業取調掛を内務省に設置し、岩山敬義・米国人D・W・アップ・ジョーンらが調査に当たった。候補地として、①千葉県大貫山 ②同元佐倉七牧 ③同元小金五牧 ④茨城県女化阿見原 ⑤栃木県那須原大輪地原及び西原であった。この結果、千葉県の元佐倉七牧の一つである取香牧を中心に、高野牧・内野牧・矢作牧を含めた三、二〇〇町歩を選定した。
こうして、一一月に下総牧羊場が開設され、場長に岩山敬義が任命された。併せて取香牧に取香種畜場が創設され、それまでの内藤新宿試験場の洋種牛馬の飼育・各府県貸与の業務が移された。さらに、一四年には下総牧羊場と取香種畜場が合併して、下総種畜場と改称された。
そして、御料地に編入されるのは一八年で、所管を農商務省から宮内省に移され、宮内省下総種畜場と称した。
こうした御料地の編入にみられる皇室財産の整備は、天皇制の確立のうえからも積極的に行われ、一二年以降の銀行株式などの皇室移管や一七年の北海道新冠牧場をはじめとした御料地への編入により、二三年には実に三六万町歩にのぼる御料地を確保していったのである。
さて、宮内省下総種畜場は二一年には主馬寮に移管され、下総御料牧場と改称し、二四年からは独立採算制を導入、業務の立て直しを図った。昭和期に入ると、養鶏・蔬菜栽培も開始された。
そして、昭和四二年(一九六八)三月に新牧場を高根沢町に設置することを正式に発表し、四四年八月一八日閉場式を行い、八五年間の千葉県での御料牧場時代の幕を閉じた。