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工場誘致条例と振興計画

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 高根沢町は、昭和三五年(一九六〇)に「高根沢町工場誘致条例」(史料編Ⅲ・一二七二頁)が制定された。これは東北本線の電化などにより工場立地の条件が整備される中で、町内において工場を新設または増設を奨励促進することにより、産業の振興をはかることを目的とした。そして、奨励措置を適用する基準として、投下固定資産総額五〇〇万円以上、常時使用する従業員三〇人以上の工場が対象とされた。これらの調査や審議をする機関として、高根沢町工場誘致委員会が置かれた。これにより、萓沼製作所宝積寺工場(ベアリング製造)と丸松製作所(機械製作)が誘致されたが、農業重点地域として推移してきた高根沢町において、工場誘致は積極的な政策にはなりえなかった。さらに、その後の都市化・宅地化にともなう地価の高騰により、工場誘致も進展しなかった。
 四〇年代後半に入ると列島改造・地域開発の名のもとに、企業・工場が地域に分散化されるようになる。四六年三月に策定された「高根沢町振興計画」(史料編Ⅲ・一二二七頁)における工業計画の項には、「経済の成長は工業に期待するところが大きく、その力を本町経済の発展の基調として活用してゆくが、本町の数少ない立地条件を利用し工場団地を開発する。工場誘致には、誘致する工場を分析しバラエティーに富んだ業種を選択し、他産業との結びつき、産業公害の有無、住民の労働の場となることなどを重視する。」としている。つまり、高根沢町の発展のカギを経済に求め、そのために多業種・無公害企業・そして住民の就労の場の確保を目的として工場誘致を図ろうとした。その現状と問題点としては、前にも述べたように、高根沢町は総面積のうち六五パーセントが耕地であり、農産物生産の重点地帯であるため工場誘致については消極的であった。三五年からの工場誘致の推進に対し、東北本線の電化、国道・県道の整備、首都圏整備計画などにともない、都市開発化が進み、地価高騰に悩まされ工場誘致は進展せず、わずかに数社が誘致されたにすぎなかった。
 そして、工場団地を造成するに当たっては、米の生産調整を勘案し、また立地条件を考慮して今後の大規模基盤整備事業により区画整理と並行して、工場団地を造成して、積極的に工場誘致を図らねばならないとした。農業中心の高根沢町にとっては、農地の基盤整備事業により区画整理をし、工業団地の造成をするという方法が取られたのである。
 さらに、工場の現況においては、従業員一〇人以上の工場は二二社に過ぎず一〇〇人以上の工場は当時としてはなかった。また、工場用地の価格は市街化区域では、四〇年では三・三平方メートル当たり一,〇〇〇円程度で入手できたものが、四六年では、三,〇〇〇円と急騰し、用地取得金の金利が生産コストに影響を及ぼすようになっていた。
 労働人口は、高根沢町の農業労働力の余剰労働力が急激に増大しているものの、各産業の急速な発展と、加えて勤労青少年の都市流出により、労働者の確保は質量ともに大きな問題であり、特に中小企業にとっては年々深刻な問題となって来ていた。
 しかしながら、本町には良質な工業用水の供給源として鬼怒川のほか、用水として使われている五行川、井沼川などの付近一帯は地下深度五~二〇メートルに良質な帯水層があるなど、地下水の利用に好条件を備えていることが特色としてあった。また、町営水道も宝積寺・仁井田地区に設置されているなど、水利の便は良好であった。
 こうした現状において、工業団地の立地整備事業は、新都市計画並びに大規模ほ場整備事業に組入れられ、事業が積極的に推進された。
 そして、工業団地の造成は市街化調整区域を対象に県の委託開発事業に依存するものであった。団地内の用地は農地の比率が大きいため、離農対策・大規模ほ場整備事業等の関連性を十分に考慮し、農民が工場誘致の犠牲となることなく、相互繁栄の道を切り開きながら工場の適地を選定し、工場団地の造成を図ろうとした。
 また、労働力については、農業の近代化・省力化によって生ずる農家の余剰労働力を確保して工場に投下し、町民の所得を増加させると同時に青少年の都市流出を防止しようとするものであった。
 さらに、高根沢町の既存工場の大部分は市街地あるいはその周辺に点在する中小企業であり、公害問題や経営規模の拡大といった問題を、集団化・組織化することで解決し、中小企業団地として都市計画事業に合わせ、工業団地の形成が図られた。
 こうして、従来の稲作主体の農業が中心の産業構造から、徐々に農工のバランスのとれた産業構造への転換が図られ始めたのである。
 こうした考え方に基づき、四六年キリンビール株式会社との間で工場の建設・操業についての協議書が締結されるのである。