こうした状況の中で、栃木県及び高根沢町からの勧誘が行われ、高根沢町大字花岡地区に立地することが決定された。その理由としては、同地区は当時の国鉄烏山線に沿うとともに、主要地方道である宇都宮―烏山線(通称烏山街道)沿いに位置し、主要道路と鉄道にはさまれた地域であるため、原料や製品の輸送に便利であった。このため烏山線花岡駅からは引込線が引かれた。また、ビール製造のうえで最も重要な醸造用水についても、この地域は地質的に鬼怒川の伏流水が地下を流れ、良質な水を必要量確保できる見通しがついたことなどにより決定された。四六年八月、地権者に対する説明会がおこなわれ、一二月には大部分の地権者との間で売買契約が締結され、四七年一二月全用地に対して農地転用許可がおりた。その間、四六年一二月二一日に栃木県と高根沢町との間で、工場進出に際しての三者協定が結ばれた。
用地取得のあと、五〇年春稼働の予定で建設準備が開始され、四八年三月栃木工場建設研究会が発足し基本計画の検討がはじめられた。しかしながら、その年の秋の石油危機とその後のビール需用やキリンビール株式会社の設備投資抑制方針などの影響により、工場建設は大幅に遅れ、研究会も解散された。しかし、その後の社会情勢の好転にともない第二次の建設研究会が編成され、五四年春の稼働を目標に建設準備作業に入った。一二月にはビール年間一二万キロリットル製造の酒類製造免許を受け、五二年一〇月二四日地鎮祭が行われた。こうして、工事は予定どおり進行し、五四年一月二二日には初仕込式が行われた(『麒麟麦酒の歴史―続戦後編』麒麟麦酒株式会社)。
工場の設備計画に当たっては、品質管理・環境保全・公害防止・省エネルギー・省力・コスト削減のため、国産機械だけではなく、必要に応じて輸入機械も採用された。
品質管理面では、特に微生物管理に留意し、発酵・貯蔵室からなる醸成棟は機械室等を除く全区域をクリーンルームとして設計された。壜詰機は四台とも西ドイツ製を採用し、その製造ラインにコンピューターを導入した。また、恵まれた自然環境に立地しているため、工場建設計画の段階から、環境保全には最大限の配慮がなされた。五三年一〇月に「公害防止環境保全に関する協定」が結ばれ、工場排水はBOD平均八ppmという、厳しい規制が設けられ、従来の活性汚泥法による排水処理に加え、上向砂流濾過装置による準三次処理が行なわれた。騒音についても、発生源となる機器を敷地内部にレイアウトし、西ドイツ製の低騒音機械を導入するなどして、防音対策を行った。さらに、約七万平方キロメートルに及ぶ工場用地を緑化し、工場外周にシラカシを主体とした約二〇メートル幅のクリーンベルトが設けられた。
省エネルギー・省力化対策としては、熱回収のフル活用と電力消費量の大きい冷凍・冷却システムの見直し、機械装置の自動化・集中監視に重点が置かれた。
そして、輸送体制については、道路事情や将来の増設などから見て、全量トラックに依存するのは問題があると判断し、専用側線敷設の計画が立てられた。当時、国鉄が合理化政策を取っていたため敷設の見通しは暗かったが、交渉の末五二年一一月国鉄との合意が得られた。しかし、一部の地権者との交渉が難航し、側線の開通は五四年七月を待たなければならなかった。
工場用水については、予定していた工場用水の取水事業が遅れ、操業開始時は工場内の井戸水を使用し、五七年一一月より川治ダムから取水した工業用水の供給を受け、これより工場用水に全面的に切り替えられた(『麒麟麦酒の歴史―続戦後編』麒麟麦酒株式会社)。
こうして、五四年四月に操業が開始され、投資額は当初の予定を大きく上回る三三〇億円を投下し、年間の製造能力を一七万キロリットル、大びんに換算して二億七〇〇〇万本、これを一日に直すと一一〇万本の製造が行われた。
出荷地域を見ると、栃木県が全体の四〇パーセント、茨城県が一〇パーセント、首都圏が二五パーセントとなっており、輸送については、トラック輸送と貨車輸送の二本立てで行われ、約三分の二がトラック輸送でまかなわれていたが、現在は全量トラック輸送となっている。また従業員数は準社員を合わせると二二〇人であった。なお、工場見学についても積極的に受入れ、五月に開かれるキリンフェステバルを合わせると年間五万人以上の見学者が工場を訪れている。
図8 完成当時のキリンビール栃木工場