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民俗

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 民俗とは、一言でいえば、その土地に根付いてきた人々によって「繰り返し繰り返し行われ習慣化された暮し」ということができる。したがって、大事件のような一回限りの出来事でもなければ、風俗のようにその時代に流行したものでもなく、生活の中に深く根付いたものである。人々、なかでも庶民の暮しはあまり記録されることなく、親から子供、年寄りから若者へと言葉や動作などで連綿と伝えられてきたものである。例えば、毎日の食事や衣装、部屋の内外での暮し、農作業の様子、盆や正月をはじめとする行事内容、結婚式や葬式などのやり方、などといったものである。したがって、人々の暮しぶりの移り変わりを調べようとすると、生活体験の長い人、つまりその地域に長く生きてきた古老からの聞き取りや古老が使用してきた道具や施設などを調べることが基本となる。
 ところで聞き取りの場合は、さかのぼっても七、八〇年前が限度であり、おおよそ五、六〇年程前のことが普通である。しかし人々の暮しぶりは、日本全国一様ではなく、例えば仕事着でも長着を着用したままのところもあれば、モモヒキをはき長着のすそを折り曲げて着るところ、あるいはハンテンにモモヒキという所もある。こうした様々な形で息づき、記憶されている暮しぶりを比較検討することにより、我々は暮しぶりの変遷を知ることができ、また、余所ではすでに廃れてしまった暮しぶりを掘り起こすことにより、かつてはどこでも行われていた古い時代の様子を探ることができる。
 しかし、民俗も時代の流れの中で大きく動いていることは事実である。特に昭和三〇年代後半からはじまったわが国の高度経済発展は、人々の暮しぶりに大きな変化を与えた。農村では馬が耕運機に変わり、ヨイドリといった田植えの相互扶助も姿を消した。神社の祭りもサラリーマンが多くなったことから、日曜日に行われるようになり次第に簡略化された。ここでは古老の記憶の中にまだ残存する戦前から昭和三〇年代頃まで、つまり高度経済発展以前の伝統的な町民の暮しぶりを中心に高根沢町の民俗について紹介したい。
 前述のように、民俗とは人々の暮しぶりであり生活習慣である。したがって、特定の所でのみ見られる民俗は極めて少なく、それなりの広がりをもって見られる。その広がりには、栃木県中央部一帯とか、栃木県とか北関東、あるいは東日本といったものがある。高根沢町の民俗の特徴をあえていえば、それは栃木県中央部とか塩谷郡から那須郡、芳賀郡にかけての地域といった広がりの中で見られる。例えば、ヤマッキという言葉、オムツラ団子・奉公人分家などの風習、天棚を設置しての天祭、長屋門や四脚門を構え広大な屋敷林をめぐらした豪壮な屋敷構え、横幅イロリ、食違い棟の民家などは、高根沢町を特徴づける民俗といえよう。
 ヤマッキという言葉は、農作業などで着用した仕事着の呼び名である。一般的にはノラギ、つまり野良で着用する着物といわれる。ところが高根沢町を含め栃木県北東部一帯では、こうした呼び名はなく、野良という言葉さえない。ということは、屋敷のまわりは全て山という概念なのである。
 ところでこの山という言葉を調べて見ると、必ずしも起伏のある山を意味するだけではなく、雑木林などにおおわれた平地林を含めて「山」といっている。「野良」という概念が無く、山という概念ばかりが意識されるこのヤマッキという言葉から、高根沢町周辺では長い間平地林が広がっていたことが窺える。
 オムツラ団子は、正月一四日に作られる団子の一種であり、六個の大きな団子を樫の枝などにさして台所の一角に飾るものである。オムツラとは、六個連なるところからそう呼ばれるようになったもので、冬の夜空に浮ぶ六連星(スバル)を指すものともいわれる。
 奉公人分家は、大地主の所に奉公に来ていたものが、分家に出されたものである。高根沢町は、戦前、栃木県でも有数の大地主が存在した所であり、奉公人分家はそうした地主制度を物語る。また、豪壮な屋敷構えや食違い棟民家なども大地主が存在したことを物語る。
 天祭は太陽・月をはじめとする八百万の神仏に五穀豊穣・風雨順調などを祈願するものである。栃木県を中心に福島県、茨城県、千葉県あたりに見られるものだが、天棚と称する仮説組立て式の棚を用いるのが栃木県中央部の特徴である。
 このように高根沢町ではいくつかの特徴的な民俗事象が見られるが、前述のように、ほとんどの民俗は関東あるいは東日本という広い範囲に共通する民俗である。以下、この民俗編では各項目にしたがって紹介したい。
(柏村 祐司)


図3 農作業で着用したヤマッキ


図4 オムツラダンゴ。正月14日につくられる6個連の団子(大谷)


図5 天祭。天棚を「ゴライコウ、ゴライコウ」と唱えながら巡る(石末 宿)