所によっては、ヌカリ・ヌカリタンボと呼ばれる湿田も存在したが、晨民のたゆまぬ努力により暗渠排水を施し、圃場整備により乾田へと生まれ変わっていった。
また、葉たばこの栽培や養蚕も、現金収入源として盛んに行われた。葉たばこは、明治期には高根沢町の広い地域で栽培されていたが、昭和期になると台新田や下柏崎などの喜連川丘陵地帯に栽培が集約されるようになった。一方、養蚕は飯室・文挟・石末・中阿久津などを中心に広範囲に行われたが、戦後にはほとんど桑畑は見られなくなってしまった。
東の丘陵部ではクヌギ・ナラなどの雑木を使った炭焼きや薪切りなどが行われていた。現在では炭を焼く人の姿は見られないが、炭窯は丘陵の傾斜地を利用して築かれた。なお、東の丘陵部は、西の台地とともに木の葉さらいの場でもあり、貴重な堆肥の原料の供給場所であった。
果樹栽培としては、喜連川丘陵の山間地を利用して梨が栽培され、また上高根沢の台ノ原ではぶどう栽培が行われ、観光ぶどう園として人気を呼んでいる。
図1 平地と丘陵と用水(太田)