古くから用水が発達し、その多くが平坦地である高根沢町は、米所として稲作を中心とした農業が発達してきた。大正一三年の五〇町歩以上の地主は、栃木県において四七名を数えたが、その中で高根沢町においては八名が大地主として名を連ねていた(資料編Ⅲ近現代八三五頁)。統計的に見ても、昭和三〇年代における水田面積は、隣りの氏家町が二五〇〇ヘクタール前後、喜連川町が一二〇〇ヘクタール程度、南那須町が一〇〇〇ヘクタールを少し越えた面積であるのに比べて、高根沢町は三五〇〇ヘクタール前後の面積を有する穀倉地帯であり、それが現在に引き継がれている。
水田は一毛作田と二毛作田とがあり、二毛作田はムギタ(麦田)といい、裏作に大麦が栽培された。大麦は、麦の中でも刈り取る時期が早く、この後稲作が行われる。
図9 カントリーエレベーター(石末)