このような湿田では、昔から暗渠排水が行なわれた。大正期の暗渠排水のやり方は、地面を一メートル以上掘り下げ、そこに太さ二〇センチメートルほどの太さの松丸太四本を二本ずつ二段に重ねて、その上にソダ木を被せて土を戻した。これは丸太の間を排水の水が通る仕組みで、このようにして余分な水を排水し、乾田化を図ったのである。
時代が進むと箱土管による排水が行なわれた。これは板を四枚組み合わせ箱状にしたもので、一辺が一五センチメートルの大きさで、その上にソダ木を被せた。なお、この箱土管にはナマズや小魚が住み着き、水切りの一一月には木の葉や枝などを焼いて作ったアクバイを入れて魚を取ったと言い、一つの楽しみでもあった。
昭和三〇年頃になると土管が普及し、益子や七井・栃木で作られた土管が使用され、直径二〇~三〇センチメートルのものを五~六メートルおきに埋めていった。その上に笹やソダ・モミガラを敷いて土を被せた。
図10 湿田で使われた田ゲタ(町歴史民俗資料館蔵)