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米作りの準備

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 米作りにとって大事なものは土づくりであり、また米俵づくりも農閑期の大事な仕事であった。そのため冬場も夜なべをするなど忙しい日々が続いた。
 
①木の葉さらい
 今では化学肥料が幅を利かし、簡単に肥料が手に入るが、当時はキノハ(木の葉)や稲藁を原料とした厩肥が最も良い土の栄養源であった。
 木の葉さらいは、雑木山の木の葉がすっかり落ちる一一月下旬から一二月初旬にかけて始まり、一二月下旬の大晦日前まで続けられた。木の葉を集める場所は、南那須町の八ケ代や福岡が多く、高根沢地内では現在の光陽台や宝石台、それに御料牧場や台新田あたりが多かった。このあたりは鬱蒼とした雑木林であったが、一二月ともなるとあちらこちらからやって来た木の葉さらいの人たちで賑やかであった。
 木の葉さらいは、まず山持ちの地主と直接契約して雑木山を借りる。一般的には一町歩程度を借りるが、一反歩で約三段(一八束)取れ、一町歩で三〇段取れる計算となる。木の葉をさらいに行く時は家族総出か夫婦二人で、また近所の気の合った人たち二~三軒で行くことも多かった。
 木の葉を運ぶものとしては、荷車がもっぱらであったが後にリヤカーに変わった。台新田など丘陵地帯の人たちは、近くにヤマ(山)があるため背負いバシゴや背負いカゴを使った。ちなみに背負いバシゴにつける束は男性三束・女性二束であった。持って行く物としては、縄の代わりに一〇本程度の藁を継ぎながら撚り、穂の部分で結んだマッツラと呼ばれるものと藁、それに熊手とカツラガマを持って弁当持参で出かけた。朝の七時半頃には家を出て、八時過ぎには山に到着する。まず周りの小枝を集めて燃やし、身体を温めてから仕事に入った。はじめに鎌で下刈りをする。この下刈りをカッタデといい、下刈りして集めた束をカッタデマデといった。また枯れ枝を集めてから、木の葉を熊手でかき集める。高いところから低い方へと木の葉をかき集めて行く。木の葉がたまると男性が束ねて行くのだが、この束ね方が絶妙である。前日作った六尺ほどの長さのマッツラを三本並べ、そこに藁二束をほぐして平に敷くと、縦四尺五寸の横三尺の広さになる。そこにかき集められた木の葉の固まりを四つ入れ、最後に中央に入れる。マッツラを持ち、足で木の葉を踏み込み、後ずさりしながら丸めて行き、マッツラを縛ると直径三尺ほどの束が出来上がる。これを、荷車やリヤカーに付けて運び出すのである。なお、荷車などでの運搬は横積みのため、木の葉は俵からこぼれることはなかったが、馬で運搬していた頃は、俵の片側には底となる部分が必要なため、片方に藁の茎を部分的に伸ばしておき、それらの茎をよじり込むようにして底を作った。これは、馬での運搬は両側に三束ずつ積みさらに上に積み上げるが、両側に付けた俵は縦にしたため馬の歩く振動で、しっかり固めた木の葉でも落ちてしまうからであった。
 仕事は一〇時の休みをとり、昼の弁当をとる以外は黙々と進められ、暗くなる前の午後三時半頃にはヤマジマイ(山仕舞)とし、荷車に束を付けて帰り仕度となる。荷車が入らない遠い場所では、一束ずつ縄で背負って降ろしたものである。荷車では九束・リヤカーでは一二束を積むことが一般的であったが、それ以上積むこともあった。なお、馬を使っていた頃は、馬の背に一〇束を載せて運んだという。さて、荷車での束の積み方を見てみると、まず中央に縦にして二束ずつ上下に積み、縄で一本仮止めしたあと、今度は前後横にして二束ずつ上下に積み、また縦に一本の縄で仮止めする。その後さらに上に一束ずつ積み、最後にしっかりと縦横二本ずつ縛って崩れないようにした。さらに、もう一束ずつ付けて一一束か一二束にすることもあったが、このときは車輪の両側に二本ずつ棒を立てて、安定感をだすとともに車輪に束がひっかからないようにした。これだけの量になると、ちょっとした登り坂でも運ぶのに苦労したが、みんなで力を合わせて押し上げたものである。
 運んできた木の葉の束は、家の周りの空いているところに置いたが、まず縦に束を置き、その上から横に積み上げ五段くらいの高さにした。木の葉の束を家の前にうず高く積むことは、ひとつの自慢でもあったという。これを厩に一~二束ずつ入れ、押し切りで切った藁を混ぜて馬に踏ませて堆肥にし、これを田んぼに施した。また、葉たばこ栽培の農家では、この木の葉を直接苗床に入れて使用した。
 なお、山を借りるのにも雑木ごと契約して薪や炭焼き用にする方法と木の葉のみの契約とがあり、木の葉だけの場合は生木を切ったりしようものならば、契約外で地主より怒られたものである。
 木の葉さらいは昭和三五年頃まで行なわれたが、その後は農耕の労働手段が馬から昭和三〇年頃から入り始めてきた耕運機に取って変わり、また肥料も金肥が主体となったため、木の葉を用いた厩肥の利用はなくなってしまった。
 
②マヤゲダシ(厩肥出し)
 マヤゲ(厩肥)は田んぼの元肥として欠かすことのできないものである。木の葉と稲藁・麦藁などを馬に踏ませて発酵させた肥料のことを厩肥といい、厩に木の葉と押し切りで細かく切った藁を入れるのは、毎日農作業が終わった夕方の仕事で、乾いた藁で馬がゆっくり寝ることができた。厩から厩肥を出すことをマヤゲダシ(厩肥出し)といった。夏季には一週間程度で堆肥となったが、堆肥が欲しい二、三月頃は厩肥となるまでに寒さのために時間がかかり、強制的に風呂の湯をかけたり、米の研ぎ汁を入れたりして発酵させ腐るのを早めたものである。木の葉は早いところでは四月頃、遅くとも夏の頃には使い果たし、生草や稲藁、または大麦藁を入れたという。堆肥を出すには、歯の長さが一五センチメートルほどの四本歯のマヤゲマンノウ(ツノマンノウともいう)でかき出し、二本の竹の棒に網の付いた縄モッコを使って二人で運んだ。また、リヤカーも使われた。
 取り出した厩肥は家の庭に置かれたり、早稲の稲を刈った家の前の田に積み上げられ、これをマヤゲイミとかマヤゲツカ(厩肥塚)といい、その上に風呂の水や下肥をかけ、二、三回切り返す。これをマヤゲキリカエシといい、この時もマヤゲマンノウやホークを使用した。
 
③藁仕事
 藁仕事は、木の葉さらいが終わった一二月末から三月末まで、母屋の土間において夜なべ仕事で行なわれた。主に米俵づくりである。つまり、タワラ(俵)・ボッチ・コテナワ・俵シメナワを作るのである。俵は米俵の主体をなし、縦約四尺、横約二尺五寸ほどのもので、俵編み台に稲藁をかけコテナワで編み上げるものである。ボッチは、筒状にした俵の底と蓋にするもので、円形状に編んだものである。コテナワは、前述したように俵を編むための縄で、両手を横に広げた長さを一ヒロといい、一俵を編むのに一〇ヒロ半を必要とした。一方、俵シメナワは、米を入れた俵をしめるのに用いる縄である。米俵は三月末から四月にかけて検査があり、米穀検査所から検査に来た。俵九百匁・ボッチは百匁が基準で、合格したものは○合のハンコが赤か青のインクで付けられた。なお、一俵は籾で一六貫入る。これがマタイ(麻袋)に変わるのが昭和三八年頃で、さらに紙袋になるのが昭和五〇年頃である。なお紙袋は三〇キログラム入りとなった。
 俵用の藁の量は五~六反歩の水田から収穫される藁が必要とされた。この藁は別に取って置き、脱穀のあと田んぼに広げて一週間ほど干してから納屋に保存した。使う時には、田うないに使うマンガ(馬鍬)を逆さまにして歯を上にし、その歯の間に藁をくぐして藁のシビを取った。縄用の藁はセイツキ棒とかツチンボといわれる欅か樫の木で、持つところが付いた太い棒で叩いて柔らかくしてから使った。なお、セイツキ棒はそのままの丸太を切って取っ手の部分を細くしたものと、太い木を四つ割りにしてから削ったものとがあり、四つ割りのものは割れがこないという。なお、藁を柔らかくするときに使う石の台で平らなワラブチ石は厩の近くに置いてあり、そこで藁打ちが行われた。

図11 木の葉さらいの若者(大谷 阿久津次大氏提供)


図12 木の葉の束ね方


図13 セイツキ棒(町歴史民俗資料館蔵)


図14 米俵アミ