ここで、一般的にいわれるユイと手間取りについて、整理しておきたい。この地域では、ユイのことをヨイドリとかイイドリ、あるいはイッパカといい、イッパカは文挟・飯室・伏久あたりで使われた言葉である。一方、手間取りのことをヒリョウドリあるいはヒヨウドリと呼んだ。地域によって違いがあるが、ヨイドリは昭和三〇年頃まで行なわれた形態である。特に、田植えの時や代かき・田うない・稲刈りの時など労働力が集中的に必要な時に行われた。
基本的には、始めはヨイドリと呼ばれるお互い労働で返す作業形態であったものが、後に金銭を支払うヒリョウドリと呼ばれる手間取りの形態に代わって行ったものと思われる。高根沢町においては、その大部分が豊かな稲作地域ではあるが、宝積寺や仁井田などの市街地と東部地区の丘陵地、または南那須町などの非稲作地域、あるいは水田面積の少ない地域のほか、同じ地域内の小規模農家から労働力が供給された。つまり、稲作農家の場合、ほぼ同じ時期に田植えを行わなければならず、どの家でも忙しくなり、隣同士で労働力を確保することが難しかった。したがって、非稲作地域や同じ地域内の小規模農家の労働力に頼ったのである。ただ、基本的には大・中規模農家が小規模農家の労働力を吸収することが多かった。つまり、小規模農家は耕地面積が少ないため、短時間で終了するとともに、生活のために手間稼ぎのヒリョウドリに出て、賃金を稼ぐ必要があった。それとともに、先に述べた市街地と丘陵部の人たちは稲作地域では重要な労働源であったのである。
ヒリョウドリは、事前に人夫回しが来て段取りを済ませ、田植えの面積に応じて当日の人数・日数を決めて来てもらう。手間は最後の日に人夫回しの人に支払うのである。自家用車が普及すると、車賃を払ったうえに送り迎えをするようになり、ヒリョウドリサマのほうが強かった。ほとんどの作業はヒリョウドリが行なったが、残ったところなどは近所の人に手間を払って依頼するか、ヨイドリで行なわれた。また、一反歩単位で金額を決めて田植えを委託するワタシ(渡し)の方法もあった。