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アキマデ

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 刈り取られた稲は、乾燥させてからその場で脱穀したり、カツギ棒やリヤカーで稲束を運んで、場所を変えて脱穀した。この稲を脱穀し、乾燥させて選別し米俵に詰めるまでの脱穀調製をアキマデといった。大正期までは千歯ゴキ(金ゴキ)が使われ、その後手回し脱穀機が一時使われたが、一般的には足踏脱穀機が広く使われた。昭和二〇年代より発動機を用いた脱穀機が使われるようになった。足踏み脱穀機は、普通一台のみで使用したが、手伝いを頼む時には、脱穀機を二台入れ、向き合って行なうこともあった。また、脱穀する時は足踏み脱穀機の下に、筵か麻袋を八枚縫い合わせたものを敷いた。脱穀は、稲の束を小脇に抱え、穂先を回転する歯に当てて行う。足を踏みながら脱穀機を回転させ、穂先をまんべんなく歯に当てる作業は、なれないとできないものであった。脱穀したもの中には稲穂のままのものもあるため、その後クルリ棒で叩き穂から籾を取った。この時籾のノゲが身体に入ったりして痛かったという。脱穀した籾は三本の棒で組まれ吊るされた長方形で網が藤つるでできたモミブルイでふるい、筵に広げて乾かす。この時に、ホシモノ棒またはカエシ棒・モミガエシと呼ばれる道具を使って籾を広げた。干し終わった籾は米俵より細い籾袋(五斗)に入れて、三ケ所止めて荷車で家の納屋まで運んだ。
 籾干しが終わると、次に籾摺りに移る。籾摺りは籾殻を取り除き玄米にするもので、戦前までは納屋の中で二人が四斗樽の大きさの土ズルスを回して籾を摺った。その後唐箕であおり、万石通に通した。古くは網の目の粗いものから細かいものへと三回に分けて選別し、米俵に詰めたが、昭和一〇年頃から半自動の籾摺り機が出回り、摺ったあとに粗万石通・仕上げ万石通と二回通した。また、その後万石通は三徳万石通が登場し、通す部分が「く」の字に曲がり、粗から仕上げまでが一台でできるようになった。
 籾の乾燥が終わった頃を見計らってニワヨセが行なわれる。この行事は豊作を田の神様に感謝し、翌年の豊作を祈願するもので、西部地区ではダンゴ、東部地区では米の粉の餅に餡をくるんで、手伝ってくれた家に配った。このダンゴや餅は、屑米をイスス(石臼)で挽いたり、クルマと言われる水車で精白にしたものを水でよく洗い、石臼で粉にしたものを使った。
 摺り上がった米は、米俵に詰め藏や納屋に納めたが、この場合の詰め方は、玄米四斗に目減り分を加えて米俵に詰める。また米俵は古くは二本縄で編んだ俵が使われ、米が漏れるのを防ぐため二重にして使用した。昭和二〇年頃には、ボッチを当てて、横縄(結い縄)を五か所縛って、縦縄を四か所均等にかけるようになった。昭和四〇年頃からは、俵に替わり麻袋が用いられるようになり、二〇年前頃から現在の紙袋が登場した。目方は正味一六貫(約六〇キログラム)で、俵・ボッチ・結い縄・縦縄を含めて一七貫五〇〇匁となる。現在の紙袋は三〇キログラム入りである。古くは検査員が家に来て等級を付けたが、昭和一五年頃から農協にて検査するようになった。等級は、一等〇・二等∞・三等△・四等∵に分けられ巻紙が付けられた。等級の目安としては、米に割れがあるもの、屑米・乳白のもの・茶色の米・胴割れ・アラヌカが多いものは、等級が低くかった。米は馬車引きを頼み出荷し、宝積寺の鈴木商店や氏家町の十二会社・農事実行組合に納めた。また、一〇月二〇日(一一月あるいは一二月に行う家もある)のエビスコウの時に、肥料屋に肥料代金として米で支払うこともあった。後には農協に納めるようになった。

図35 千歯コキによる脱穀(大谷 阿久津次大氏提供)


図36 足踏脱穀機による脱穀


図37 クルリ棒を使って穂から籾を取る


図38 万石通での調製(大谷 阿久津次大氏提供)