畑の作物には夏作と冬作があり、夏作は大豆・小豆・サツマなどに対して、冬作はハタムギ(畑麦)と呼ばれ小麦や大麦・ビール麦が栽培された。この他、東部の喜連川丘陵地帯では葉たばこ栽培が行われ、養蚕については飯室・文挟・石末・中阿久津を中心に高根沢町の広い地域で少量ではあるが行われた。葉たばこと養蚕については、別項で述べる。
①畑における生産
畑では主に陸稲・小麦・根菜類が作られた。小麦は量が取れないが、高く売れると同時に日々の食事の中でウドン・スイトンとして食された。小麦は家々によって違うが、年間三俵~五俵は作られ、小麦一斗で島田ウドン一四束と換えられた。
根菜類は、主にサツマ・サトイモ・大豆・小豆・ウズラ豆などが栽培された。サツマは、戦中戦後にかけて多く栽培され、品種として「太白」「川越」「沖縄」などの種類がみられた。サツマは三月彼岸にタネフセ(苗を育てる)し、五月に植付け、九月中旬~一〇月下旬にサツマオコシ(収穫)となる。ウズラ豆は、豆類では最初に蒔く豆で八十八夜前後に蒔く。大豆・小豆は、五月中旬に種蒔きを行ない、一〇月末に収穫し、その後に小麦が蒔かれる。サトイモは、四月下旬に種芋が植えられるが、その時の植え方は、ヤマトウネと言われ、畝と畝の間を一尺八寸の畝間をとる。次の畝間は三尺とし、交互に繰返し畝を作った。これは、サトイモが根本に土を多く必要とするために、畝を広く取って土入れするのである。
②ムギタにおける栽培
稲作の裏作として麦の栽培が行われる。使われる田をムギタ(麦田)といい、中でも早稲の米を作ったあとに大麦・ビール麦(二条大麦)が作られた。麦田の場所は田の中でも水はけの良い場所が選ばれたため、田のあちこちで部分的に作られるといった状況であった。そこには大麦が作られ、「六角」「関取」といった品種が栽培された。ビール麦は昭和初期から契約栽培で作られるようになった。麦作は夏の小遣い稼ぎとなり家計の一部を補った。