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麦刈りと麦コキ

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 いよいよ六月に入ると麦の刈り取りとなる。麦刈りの時期はちようど梅雨の時期と重なるため、刈り取りのできる日は限られていた。麦刈り用の鎌は、ハガマといわれる草刈鎌で二本の畝の麦を刈って行く。この時期は田植えの時期と重なり、合間をぬっての作業となる。二本の畝から刈り取った麦は、一列にボウオキ(棒置き)して、その場でジボシ(地干し)した。地干しした場所に足踏脱穀機を運び込み、干した時の大束を解いて、持てる程度の束にしてその場で脱穀した。脱穀から乾燥・選別・俵詰めまでの作業をムギコナシ(麦こなし)という。脱穀には古くは、金ゴキと呼ばれる千歯コキが使われた。麦こき用の千歯コキは、稲こき用に比べて歯のすき間が広く、稲こき用の千歯コキの歯を一本おきに抜いて使用した家もあった。大正末頃から足踏み脱穀機が導入され、広く使用されるようになった。
 なお、麦は稲よりも粒が落ちやすいが、節が弱いため干しっぱなしにしておくと、節から切れてしまい脱穀ができなくなったという。穂の付いている麦をツタラといい、これをクルリ棒で打って脱粒させた。その時下に筵を敷いたが、後に麻袋を解いて縫い合わせたものをシート代わりに敷いた。麦こなしの時期は暑い頃で、作業は汗だくとなる。特に炎天のクルリ棒でのツタラの付いた粒の脱粒は、飛び散るゴミやノゲが身体に入り、非常に痛がゆかった。
 その後、藤蔓の麦フルイで篩い分け家に持ち帰って干した。干す場所は納屋が一般的であったが、天気が悪い時には家の畳をはがして広げたという。それでも梅雨の季節ともなるとカビが生えることがあり、そうした麦を「紅いった」といわれた。通常は、二日間干し一〇時と一二時、それに午後三時の三回返して均一に乾燥させ、歯で噛んでカチンとなる堅さを乾燥具合の目安とした。最後に、唐箕で煽って選別し袋詰めとなる。俵には米俵より二~三升多く入れた。
 麦こなしが終わる七月下旬~八月初旬は夏祭りやカマノフタ(釜の蓋)の頃で、タンサンマンジュウやコムギマンジュウ(小麦饅頭)が作られた。

図40 クルリ棒(町歴史民俗資料館蔵)


表1 高根沢町の農事暦1(太田)


表2 高根沢町の農事暦2(中阿久津)