ビューア該当ページ

〔梨栽培〕

87 ~ 88 / 766ページ
 梨栽培は、明治期に東部や西部の台地の一部で行なわれ、大正期には高根沢東部地域の飯室・桑窪・太田・亀梨・上柏崎・中柏崎・下柏崎を中心に栽培されるようになる。現在は、高根沢町全体で二六軒が梨を生産している。
 昭和三〇年頃に高根沢梨生産出荷組合(組合員一二名 七町歩 中・下柏崎)・塩谷南部梨生産出荷組合(組合員五九名 二一町歩 飯室・文挟・台新田・東高谷・上太田・太田・桑窪)・阿久津梨生産組合(組合員一一名 二町歩 宝積寺・大谷)の三組合があったが、昭和三一年に京浜地方からの出荷要請もあり、販売体制を有利に進めるため、三組合が合併して高根沢梨組合が結成され、農業改良普及所の中に事務所が置かれ、普及所が技術指導を行なった。その後、高根沢農協内に事務所を置くようになった。
 最盛期の昭和三〇年頃には、戦後の好景気に刺激され、所得の増大により果物の需要が急速に伸び、梨の値段も高騰し高値で売れるようになった。そのため、栽培面積も拡大され、丘陵地のたばこ畑が梨畑に転換されるようになった。
 下柏崎のある農家も、葉たばこ栽培を行なっていたが、ダルマ葉から黄色種に転換させられるにおよび、昭和一二年に梨栽培に切り替えていった。黄色種は、火力乾燥など設備投資に多額の費用がかかるためであった。