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〔水車の普及〕

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 水車は、ひとむかし前の農村の風物であり、郷愁を誘うものであるが、それ以上に水を巧みに利用し、米をつき小麦を粉にする水車は、それまでの労働を軽減するものとして、全国的に普及したものの一つである。
 一般的に水車は、水の流れるエネルギーを機械的エネルギーに変える原動機で、水の流れによって水輪が回転し、それが軸に伝わり米つきや粉ひきの動力となる。地域によっては、田に水を入れるための揚水用にも使用された。精米・製粉用の水車は、水を受けて回転する水輪の部分と小屋からなっている。小屋の中には水輪から動力を受けるための軸と歯車があり、精米・精穀のための石臼が埋め込まれ、その上につくための杵があり、水車の大きさによりつき臼の数も様々であった。また、粉ひき用の大型の石臼があるのが一般的であった。
 一方、水輪は水路の形や水の速さなどを勘案して造られたが、良く回る水輪を造るには、水車大工の長年の経験と勘がものをいった。また、水輪にも大きく三つの種類があり、上掛け水車(上射式)・胸掛け水車(中射式)・下掛け水車(下射式)がある。上掛け水車は上から水を落とすやり方で、最も力が出る方式である。胸掛け水車は水輪の中心からやや上のあたりで水を掛ける仕方で、下掛け水車は底にやや窪みをつける程度で、水の流れに応じて水輪を設置するといったものであった。なお、水車は直接既存の川や用水に設置するのではなく、水車に水を引き込むための導水路と引き込んだ水をまた川などに戻す排水路を造り、そこに水車を設置した。
 水車の発明は定かではないが、今のトルコあたりの小アジア地域といわれ、それがギリシア・イタリア方面への伝播と中国・朝鮮半島、そして日本への伝播の二方向へと伝わっていった。日本における水車の使用は古く、『日本書紀』には推古天皇十八年(六一〇)に高句麗から水車を利用した製粉機である碾磑が伝わり、製作されたと記されている。
 そして、日本においては全国的に普及し、製穀・製粉用の水車から揚水水車、さらには製材や紡績の動力源としての水車、発電用の水車など、水車はいろいろな用途に使われた。また、県内では今市市の杉線香を製造するための水車が有名である。このように、水車の利用は多岐にわたり、それまで動力としては人力しかなかったものが、水力を利用した水車により時間と労力が大幅に省けることになり、当時としては、画期的な技術革新であった。つまり、水車が導入される前は、精米・精穀は人間が杵で搗いて行い、製粉についても手で石臼を回して粉にしたものである。しかし、水車ができることにより、それまで人力で行なわれていた精米や製粉が水車により自動的に行なわれ、その間別の仕事に従事することができたことは、労働生産性の上からも画期的なことであった。このため、水車は全国的に広まっていったのである。

図60 道沿いの水車(大谷 阿久津次大氏提供)