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水車の使用

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 水車の使用形態には、自家の米搗きや粉ひきなどに用いた自家用の水車と、他の人からの依頼により米搗きなどを請け負い、手間賃を稼ぐ営業用の水車があった。自家用水車を持つ家は大きな農家が多かったが、営業用の水車は小さな農家で農業だけでは生計が難しいといった理由によるものが多かった。なお、地域において何軒かの家が共同で使用する水車があった。
 共同使用の例としては、太田の「中の水車」がある。一三軒(当初八軒)の共同による水車使用であり、大正八年~昭和一三年頃まで使用された。水は五行川の分水を利用し、そこから導水路を新たに造り、その長さは一〇〇メートルにも達し、水路幅は五〇センチメートルで水輪付近は大谷石で補強されていた。水輪自体は「ダイハチ」と呼ばれ、運搬に使われる荷車である代八車の車輪の形から、そのように呼ばれたものと思われる。この呼び名は一般的に言われていた。大きさとしては直径二間・幅三尺で、材質は松材が使われた。松は水に強く腐りにくい特性から水車の水輪には、必ずと言ってよいほど松材が使用された。また、水輪の心棒から放射状に柱を取り付け、外側に水を受けるための羽根を付けていた。羽根の間隔は五〇~六〇センチメートルほどで、その羽根が水を受けて水輪を回転させるのである。水輪の位置であるが、下掛けと胸掛けの中間の位置にあったという。一方水車小屋は三間×四間の大きさで、中には竪杵と石臼がそれぞれ四つずつあり、石臼は御影石が使われていた。他に製粉用の大型の石臼が一台あった。ここでは、米摺りと麦摺りそれに製粉とうどん作りのために水車が使われた。米摺りは日中行い五時間程度を要したが、麦摺りは夜通し行い一〇時間はかかったという。臼の中には「つきの輪」といわれる縄で作ったものを入れることにより、つき上がりが早かった。輪は杵の大きさに合わせ直径は二〇~三〇センチメートルで、輪の太さは七~八センチメートルほどであった。水車を使う時には三日間交代で水車小屋の鍵を借りて使い、家の名が書いてある木札を水車小屋に掛けた。借りた家では夜に提灯を持って水車の見回りをした。
 太田では、他にも二基の水車があったが、これは賃ヅキで頼まれて精米や製粉を行っていた。
 寺渡戸でも昭和一〇~六〇年頃まで水車が稼働し、水輪の直径が四~五メートルあり、下掛け水車であったという。この水車は営業用であった。また、平田や金井にも水車は動いていたという。
 中阿久津では、野中祁家で明治三〇年頃から終戦までの五〇年間水車が稼働していた。この水車は「バッチャンスイシャ」と呼ばれ、釜ケ淵用水の分水を使用していた。なお、この分水路には他に二基の水車が稼働していた。他に上阿久津には「ハマックルマ」があり、宝積寺の石塚家でも水車が稼働していた。
 バッチャン水車の場合、水車を動かす水は水路から導水路に導びかれた。導水路は長さ三〇メートル・幅一・五メートルほどのもので、コンクリートと玉石で造られていた。水輪の近くには排水路があり、水車を使わない時は、排水路の堰の板を外して水を排水した。また、水輪の前にはゴミヨケが付けられていた。どうしてもゴミは水路に流れるため、水輪の破損を防ぐためにもゴミヨケは大事なものであった。また、時期によってはゴミも多く、それにより水が溢れたり、水輪に水が行き渡らないこともあり、ゴミ取りは欠かすことのできない作業であった。
 水車小屋は麦藁葺きの草屋根で、五間×二・五間の大きさで、水輪は直径二間・幅三尺の大きさで、小屋の中央に水輪が回っていた。一般的には水輪は外に設置されているのが普通であるが、小屋の中に設置されているのは、あまり見られなかった。小屋の中には、つき臼が六基あり当初は木の臼を使用していたが、後に鉄製のものとなった。また、イススと呼ばれる挽き臼が一基あり、直径が五五センチメートルほどの大きさであった。また、精米・精穀をするために使われる唐箕や万石通が備え付けられていた。なお、水輪はここでも松材が使われ、下掛け水車であった。
 この水車は、自家用であり、米・麦の精穀(アラヅキ)と小麦の製粉が行われ、これらの作業は女性の仕事であった。
 この他、花岡でも五行川の水を利用し、賃ヅキの水車が回っていた。水輪の直径が三~四メートルあり、つき臼は四つで一斗~一斗半つきの臼であった。また、直径六〇センチメートルほどの大きさの石臼が一台置かれていた。そこでは、米つき・粉ひき・うどん(島田うどん)の製造が行われ、小麦一斗と島田うどん一五・六束とが交換されたといわれ、物々交換が成り立っていた。この水車も圃場整備による水路等の改修により、その姿を消している。
 なお、水車は今まで見てきたように、精米・製粉のための利用が一般的であったが、北高根沢の栗ケ島では明治四五年から大正一二年まで製材のための水車が稼働していたといわれる。これは、水車の動力により製材するための丸鋸を動かすものであった。製材するためには大きな動力を必要としたため、川の水量が豊富で、相当大きな水輪が回っていたものと思われる。
 今まで述べてきたように、多くの水車が稼働していたということは、水車を造り修理するための、水車大工が各地にいたものと思われる。水車大工のことをクルマダイク(車大工)と呼び、上阿久津では増淵氏・石末(籠関)では福田氏などが水車大工として活躍し、その存在が確認されているが、現在では水車を造る技術について伝承されていることはほとんど無く、明らかではない。
 また、水力を利用した水車も、昭和の始め頃になると電気動力による精米機や製粉機が登場し始め、戦後になると各家々で使われるようになると、水車利用も下火となり使用されなくなっていった。

図63 鉄の搗き臼(中阿久津)


図64 粉引き用の石臼(中阿久津)