ラセン水車は、富山県で考案されたもので、大正五年(一九二〇)頃礪波市の鍛冶職元井豊藏により実用化された。この時のものが木胴型で「元井式」として売り出された。さらに、その後鉄芯型のラセン水車が大正一二年頃、同じ礪波市の犀川正作により製作され、農具商の森河慶作に新案特許権を譲り渡したことから「森河式」として製作販売された。なお、木胴型は、回転するシャフトの回りに木製の円筒に螺旋の羽根を釘で止めたものである。木胴の直径は三〇センチメートル程度で、松材などの板を張り合わせたもので、中は空洞になっている。一方、鉄芯型は鉄製の回転軸にそのまま羽根をビス止めしたものである。鉄心型は木胴型の腐りやすい欠点を改良したものであった。高根沢町においては、木胴型のラセン水車も見られたが、鉄芯型のラセン水車が多かったようである。
さて、全国的なラセン水車の普及を見てみると、ラセン水車の発祥地である富山県が抜きん出て多く、昭和初期の統計で見ると八二三六基が稼働していた。つぎに多いのが栃木県である。富山県の隣接県である新潟県の八八三基を抜いて、栃木県が八九八基で全国二位であった。次が北海道の四四七基・岩手県の四四三基・福島県の二四五基・鳥取県の二二九基・岩手県の二二一基と続く。なお、東京・大阪・長崎など八都府県では使用が認められてない。栃木県が富山県について多い理由については、今のところ定かではないが、考えられることは、栃木県において近世末の農村荒廃により入百姓として越中から宗教移民を受け入れた経緯があること。また、県北の那須野が原開拓においては、富山から多くの移住者が入植をしている。このようなことから、ラセン水車の売り込みは同郷の者を対象として、そのつてを頼って販売され、その後地元の鍛冶屋などで製造されるようになったものと思われる。ただ、確認が取れていないが、富山県のラセン水車の製造者が栃木県にて製造していたということも伝えられている。なお、北海道でやや多い傾向を示しているのは、富山県から北海道開拓のための移住によるところが大きいものと思われる。