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ラセン水車の使用

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 高根沢町においても、ラセン水車は一般的に「ラセン」と呼ばれ、河川の水量が多く安定していたため、広く使用された。太田では大正末から昭和初期にかけて導入されたようで、昭和二〇年頃まで使用され、冷子川の末流の川に近い田んぼを持っている三~四軒の農家で使われていた。冷子川は末流でも水量があり、ラセン水車には適していたようである。ラセン水車自体は鉄芯型であったようで、大きさとしては長さ約六尺で幅は三尺程度であった。大きさには、サイズがあり富山県では長さは四尺五寸から一一尺まであり、幅は二尺四寸と三尺で一号から一〇号の一〇種類があったという。選ぶに当っては、川の状態でサイズが決められ、川の幅や深さ・水の流速などが判断基準となった。そして、その用途としては脱穀がほとんどで、脱穀機にプーリーを取り付け田んぼで使用した。また、一部土ズルスに取り付け米の籾摺りにも使用された。ラセン水車から動力を伝達するロープはマニラ麻製で、松脂を塗って滑りにくくするなどの工夫がされた。ロープの長さとしては、一〇〇メートルにも及ぶ所があり、長い距離でも脱穀機は回ったという。途中ロープを支えるものとして、ラセン水車と脱穀機の間の所々に杭を打って滑車を取り付け、そこにマニラ麻でできたロープを掛けて動力を伝達した。
 ラセン水車の設置の仕方としては、冷子川の川幅の長さに切った丸太を横に積み重ね、そこに筵を掛けて、川の水を堰き止め、ラセン水車を斜めに乗せ、横に渡した丸太から溢れ出た水がラセン水車の導水樋を通り螺旋羽根を回した。
 使わない時はシリを持ち上げて置き、一年中その川に置いていた家もあった。さらに、ラセン水車自体が水に浸けて置くことが多いため、またトタンと一部木でできていることなどから、錆止め用にコールタールを塗ることは忘れなかった。
 花岡でも、三~四基程度が使用されていたといわれる。大きさとしては、長さ四~五尺・幅三尺で、ここでは木胴型が使用されていたようである。購入先としては、ほとんど不明であるが、農協で購入したという家があり興味深い。そして、稲こきや大麦・小麦の麦扱きに利用され、脱穀機に着装された。脱穀機がうなりを上げて回り、力は十分あったという。ロープは始め鹿沼の麻を使用したが、高価なため後にマニラ麻に変わった。長さは四〇~五〇メートルで川から自分の家の納屋まで引いたという。脱穀の時期に使用され、毎日ではないが約一か月間は使用し、使用しない時期は納屋にしまっておいたという。
 また、中阿久津でも鉄芯型のラセン水車の使用が認められ、脱穀に使用されていた。ラセン水車の使用については、浄土真宗を信仰している家に多く、富山県との関係もみられそうである。
 このように、高根沢町においては、豊富な河川の水を利用し、川幅も広い場所で使用するために、一般的に幅の広いラセン水車が使用されたようである。このため、動力もかなり得られたようで、脱穀には最適なものであった。ただ、ラセン水車は川がなければ使用は無理であり、用水や河川沿いでしか利用できないものであったが、高根沢町においては、ラセン水車を使用する条件となる河川が整っていることから、多くのラセン水車が稼働していた。しかし、戦後になって発動機が登場すると、ラセン水車もその役目を終えるのである。
(金井 忠夫)



図66 ラセン水車の設置の仕方