衣食住は、生活の三要素といわれるように人が生きる上での基本である。ここでは着物・食べ物・住いと題して高根沢町の衣食住の暮しについて述べる。
昭和三〇年代、高根沢町の食の暮しは、普段はムギメシ(麦飯)を主に、時々うどんやそばを食べ、味噌汁を飲み、副食には主にたくあん漬や白菜潰など季節の漬物や、サンマや鮭の塩引、メザシなどの魚、あるいはきんぴらごぼう、てんぷら、芋の煮物、ナスの油炒めなどを摂るといった戦前の食生活を引きずりながらも、カレーライスや焼きそば、トンカツ、コロッケなど新しい料理も取り入れるようになった。なお、小麦収穫後の夏場にはうどんや饅頭を作って食べることが多い。台地や水田の裏作に小麦を栽培する高根沢町ならではの食の暮しである。
衣の暮しについては、男性の場合、仕事着においても洋服が一般化しつつあり、ズボンにシャツ・ジャンパーといった出で立ちで農作業に従事した。女性の場合はまだ従来の和装が幅を利かせていたが、それでも昭和初期頃の長着に股引といった出で立ちは少なくなり、腰までのハンテンに股引が多くなった。ところで、こうした仕事着を高根沢町あたりではノラギとはいわずにヤマッキといっている。野良という概念が薄く、屋敷から一歩出た所は山との認識からであろう。
住いの暮しについてみると、分散型の屋敷を構えるのが特徴で、母屋を中心に南側に庭、背後にウラヤマ(裏山)やモガリなどの風除けを設け、庭の東西には蔵や納屋などを配置するのが一般的な屋敷構えとなっている。母屋は小麦藁を主体としたクズ屋根が一般的で、土間と床上部分とからなる半高床形式の建物である。土間には厩やカマドが設置され、土間に張り出す板張りにはイロリが設けられそこが日常生活の中心の場となった。
以上が普段の衣食住の暮しの概観であるが、結婚式や葬式あるいは正月や盆など、いわゆるハレ(晴れ)といわれる時には、普段とは異なった衣食住の暮しがあった。普段と晴れ、その明瞭な区別がなされたのも昭和三〇年代頃までの衣食住の暮しであった。