普段の着物には絣や遠州縞などの木綿のものが多く、夏は単衣、冬は袷を着用した。成長に合わせて、腰上げや肩上げをし、活発に動き回るので着物がはだけないように身頃に紐をつけて結べるようにしてあった。着物は四つ身仕立てで、一反で二着の着物を仕立てることができた。余所行きの着物には大人と同じように羽二重や銘仙、メリンスなどを着る子どももいた。
肌着はほとんどつけなかったが、子どもは風邪をひかないように、おなかをこわさないようにと菱形または三角形の腹掛けをつけていた子どもも多かった。
小学校の通学着には、戦前までは男女とも着物が多かった。男子は遠州縞や紺絣の木綿の着物、校章のついた帽子をかぶり、女子も同じく縞や絣模様の木綿地、または銘仙やメリンスの着物に三尺の帯を締めた。正月や紀元節、卒業式などの式典には紺絣、メリンスなど普段着よりも少し良い着物に、羽織を着て袴を着用した。男子は縞、女子はえび茶色の袴をつけた。また履き物は、普段は藁ぞうりや竹皮のぞうりがほとんどで、下駄を履くのは式典や余所行き、雨の日のときくらいであった。
冬にはハンコや筒袖などの綿入れを着たり、ネルの肌襦袢や下衣にはメリヤスのモモヒキを付け、コール天の足袋をはいた。この時期、通学着に金ボタンのついた学生服や洋服に靴をはく子どももいたが、ほとんどオダイジンサマの家の子どもであった。
図6 昭和初期の小学生の服装(大谷 阿久津次大氏提供)