戦前の尋常高等小学校では、運針や一つ身、ゆかたなどは習うものの、普段着や余所行き、晴れ着、単衣から袷まできちんと縫えるようになるには、オハリヤ(お針屋)と呼ばれる裁縫所で技術を習得した。宝積寺のような町場には、いつでも習いに行ける裁縫所があったが、農村のようなところでは農作業に忙しいため、稲刈りが終わった後の一二月から三月にかけての農閑期を利用して、お針屋の師匠のところへ通った娘たちが多かった。女学校を終えた人の中には、喜連川や氏家、宇都宮の専門学校へ通う人もあった。
お針屋は近所の呉服屋や裁縫の熟練者が自宅で教えていた。最初は晒木綿で肌襦袢、次に一つ身、三つ身、四つ身、本裁ちへ、単衣から袷の着物、晴れ着へと一通りの着物が縫えるようになるには三年くらい通うことになる。教材は自分で用意したが、上達してくると師匠が頼まれた反物を裁てることもあった。裁縫が上達するころには、ちょうど嫁入りの年齢になり、裁縫所は花嫁修行の場でもあった。
図11 お針屋の師匠と生徒たち(大谷 阿久津次大氏提供)