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紺屋

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 糸や布に染色してもらうときは、紺屋にもっていった。紺屋では、ヤマッキなどの仕事着用の布地や糸は蚊やブヨ、ヒルを防ぐといわれる藍染めに染めてもらった。また、白布地や白糸を無地に染めるほかに、型染めといって好みの柄物に化学染料で色分けして染めてもらうこともできた。
 紺屋が高根沢に現れるのは江戸時代後期頃で、中柏崎の小林家には藍染めの材料である藍玉を取引した古文書が多数残っている。また村明細帳にも、一八世紀中頃から、「布木綿織」が女性の農間渡世として行われていたことが記されており、木綿織りの普及とともに紺屋の仕事も増えていったと思われる。
 仁井田でクリーニング業を営む佐藤氏は、仁井田に移転する前、佐藤氏の祖父が宝積寺で紺屋を営んでおり、屋号を「梅屋」といった。藍甕は六つくらいあり、藍玉に麬や石灰、苛性ソーダを加えて藍を建てていた。染色は地織りの布地のほか、糸もずいぶん染めたという。木綿よりも絹・紬が多く、戦後まもなく品物がなかったころは着物の染め替えで忙しかった。太田の人もずいぶん染めに来て、洗い張りの注文は秋から冬にかけてが多かったという。

図12 慶応3年「あい出し方掛合仕法帳」(花岡 岡本家文書)