昼間農作業で忙しい主婦にとって、洗濯は夜に行う家事だった。井戸から洗濯、すすぎ用の水を汲むにも労力がいった。そのため洗濯は風呂の残り湯を利用した。盥に湯を入れ、洗濯板を使ってもみ洗いし、すすいでから手しぼりする。物干し竿に通して、翌朝外に出して田畑に出かけた。石けんは切り分けて使える棒状の石けんがあり、昭和の初め頃には普及していたものの、まだまだ貴重品であった。汚れを落とすにはムクロジュの皮や灰汁を用いたり、苛性ソーダを湯に溶いたものに浸したり、うどんのゆで汁もいいといわれた。
洗濯板や盥、張り板は嫁入りに欠かせない道具であった。石けんを持参した嫁もいたという。盥はタガをはめた木製のものから時代とともにブリキ製のものが普及した。
洗濯は毎日することはなく、ヤマッキなどは近くの川で泥を落とし、台所で着替えて干しておいた。汚れがひどく、大きな洗濯物のときはたたき洗いや足で踏み洗いした。絹の着物や袷の着物、夜具や布団皮などの洗濯は農閑期に縫い目をほどいておき、一枚の布状にして汚れを落とした。洗い張りといって、洗濯した後にうどん粉やふのり、伊勢のりに浸して張り板に広げて乾燥した。
洗濯は家事の中でも一番労力を要し、とりわけ家族が多かった家の洗濯は嫁の重い負担にもなった。しかし、昭和三〇年代から電気洗濯機が登場し、農村地区でもいち早く取り入れられ普及したことは、洗濯がいかに重労働であったかを物語っているとも言えよう。
絹ものや背広などふだん家では洗濯できないものは、クリーニング店に頼むようになった。昭和三〇年代には高根沢町でも洋装の普及とともにクリーニング屋が店を構えるようになり農村でも利用するようになってきた。