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髪結いの修業

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 髪結いになるには、師匠のところに住み込み、はじめの修業は掃除や身の回りの世話からであった。髪にさわれるのは半年から一年くらい経ってからで、フケ落としという下ごしらえの最初の部分をさせられた。三年から四年で師匠や姉弟子の技術を見て覚え、桃割れが結えるようになる。その際、座布団を使って元結いの締め付けを練習し、中でも銀杏返しという髪型が一番手間がかかったという。一通りの日本髪が結えると、宇都宮の警察署で免状がもらえた。一人前の髪結いになるにはだいたい一〇年はかかったという。
 休日は毎月一回、髪結いを頼まれて出かけることもあり、デガミ(出髪)といった。宝積寺で髪結いをしていた石川さんは大田原に住んでいた頃、芸者の髪を結いに五里離れた塩原温泉へ出髪に行った。芸者のお座敷が一時間五〇銭だった頃、島田の結い代は三〇銭であったという。
 島田、ツブシ、丸髷の他テゴマイという祭りのときに芸者が結う髪型を結った。夏は暑いので日本髪を結う芸者は少なかった。暮れの一二月三〇日と三一日は寝る暇もないほど忙しかったという。
 戦後、宇都宮で着付けの勉強を始めるようになる。免状も警察署から保健所担当となり、昭和二二年頃には理美容組合も結成された。パーマは昭和二六年に導入し、町内では七軒程あった。パーマの客が次第に多くなり、髷を結う髪結いの仕事は昭和三〇年代以降ほとんど見られなくなってしまった。
(君島真理子)