休日は毎月一回、髪結いを頼まれて出かけることもあり、デガミ(出髪)といった。宝積寺で髪結いをしていた石川さんは大田原に住んでいた頃、芸者の髪を結いに五里離れた塩原温泉へ出髪に行った。芸者のお座敷が一時間五〇銭だった頃、島田の結い代は三〇銭であったという。
島田、ツブシ、丸髷の他テゴマイという祭りのときに芸者が結う髪型を結った。夏は暑いので日本髪を結う芸者は少なかった。暮れの一二月三〇日と三一日は寝る暇もないほど忙しかったという。
戦後、宇都宮で着付けの勉強を始めるようになる。免状も警察署から保健所担当となり、昭和二二年頃には理美容組合も結成された。パーマは昭和二六年に導入し、町内では七軒程あった。パーマの客が次第に多くなり、髷を結う髪結いの仕事は昭和三〇年代以降ほとんど見られなくなってしまった。
(君島真理子)