盆行事は、先祖供養の祭りである。家々では、冥土からはるばる帰ってくる先祖の霊を迎えもてなすために供物を用意し、普段は食べられないようなカワリモノを作った。
盆行事は、旧暦の頃は七月に行われていたが、現在は月遅れの八月にお盆をしており、一三日の迎え盆から一六日の送り盆までが盆の期間となっている。盆月の朔日は、カマップタツイタチとかカマノフタ(釜の蓋)と呼ばれ、地獄の釜の蓋が開いて、冥土から先祖の仏たちが帰途につくと言われ、盆行事のはじまりの日である。この日は早朝から饅頭を作り、仏壇や神棚に供えるとともに、朝食や昼食がわりにも食べた。
一三日の迎え盆では、夕方、迎え火を焚いて、家族で仏様を家へ迎える。盆棚には盆花のオミナエシを飾り、そうめんやうどん、トウモロコシ、ナス、スイカ、ナシなど季節の野菜や果物を供え、里芋の葉の上に、ナスやキュウリで作った馬を飾った。夕食には、白米飯、干瓢鮨、きんぴら、カボチャやナスなどの野菜の煮物、切り昆布と干瓢とナスを醤油で煮付けたもの、天ぷら、キュウリもみなど季節の野菜を使った料理や先祖の好物を供え、家族も同じ食事をした。桑窪の農家では、仏様の好物ということで、夜は必ずうどんを供えるという。高根沢町は小麦の生産地であり、盆の時期は小麦の収穫後であることから、饅頭やうどんなど新鮮な小麦を使った料理が作られた。
「盆にボタモチ、彼岸に団子」という言葉があるが、ボタモチとは、もち米とうるち米を混ぜて炊いた飯を茶碗に盛り、小豆のあんこをのせたもので、ボタメシともいう。亀梨の農家では、仏様専用の小さな膳を作り、盆の八月一四、一五日の朝に供えたという。桑窪や、宝積寺でも一四日はボタモチを供えたという。また、盆餅といい、もち米の白餅をついた。桑窪では一三、一四日の夜に盆餅をつき、仏様に供え、太田では一四日、中阿久津や花岡では一五日に、白餅にあんこをからめたあんころ餅を供物とした。大谷では、ハラ盆といい、盆様が一番腹を空かせている一四日の朝、蓮の葉にあんころ餅をのせて供えるのだという。このほか、黄な粉餅や、砂糖で甘く煮た餅を供える家もあった。
一六日の送り盆は、あの世に帰って行く仏様を墓場まで送りに行く日である。盆送りは早く昼食を済ませ、午前中か昼過ぎに行なう。盆棚を片付け、送り火を焚き、供物や線香を持って行った。桑窪では、朝、オクリダンゴ(送り団子)を作り、昼過ぎに団子と供物、ナスやキュウリの馬を持って墓に行き、上太田では、朝食に小豆飯を炊いて供えた。大谷では、朝は白米飯、昼はうどんを作り供え、午前中の内に盆送りをし、線香、水、盆様の供物を持って墓に行き、「供養だから」と言って供えたものをその場で食べた。中阿久津では、里芋の葉の上にミヤゲダンゴ(土産団子)と菓子をのせ、墓に持って行き、入り口に置いて来たという。迎え盆で供えたナスやキュウリの馬は盆様の乗り物で、これに乗って冥土に帰って行くのだという。