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〔集落の形成と屋敷構え〕

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 近年、高根沢町では、西部の宝積寺台地の開発がめざましく、新興住宅が建ち並び、町の様相を一変させている。しかし、近世以前に成立したと思われる集落の立地を見ると、そのほとんどは鬼怒川低地と五行川低地、ならびに氏家・仁井田台地など低地上ないし低台地上である。こうした低地上ならびに低台地上に立地する集落は、集落を構成する各屋敷が孤立分散したり、集まっても数軒程度といった場合が多く、県南の渡良瀬川・思川下流域のように数十軒もの屋敷が密集する「集村」をなすことはない。このような各屋敷が分散する傾向にある集落の形態は、高根沢町のみならず、氏家町、芳賀町、真岡市と続く五行川低地に広く見られるものである。
 分散傾向にある高根沢町域の屋敷は、その多くがゆったりとした構えを見せるのが特徴である。一般的には、南面する母屋を中心に前面に庭、前方向って左右に納屋、蔵、背後には井戸や木小屋などを配置している。そして広い屋敷を構える農家では、風除けのために欅や杉、樫などの樹木や真竹や孟宗竹などの屋敷林を、さほど広い屋敷を構えることの出来ない農家では、屋敷境に風除けの生垣を設けたりしている。
 米どころである高根沢町は、隣接する芳賀町と同様に戦後の農地解放まで数十町歩の農地を所有する富農が存在した。富農では屋敷の前面に長屋門や四つ脚門を構えたり、広大な屋敷林を構えるなど遠くからでも一目でそれとわかる屋敷を構えたもので、今なおそうした富農の姿を止める屋敷が存在する。太田に通称「シマ」と呼ばれる富農がある。この家の屋敷構えは豪壮そのもので、堅固な造りの長屋門を配し、屋敷全体を欅や杉などが生茂る屋敷林で覆い、屋敷の周囲には濠をめぐらしている。盛り上がるうっそうとした屋敷林は、周囲の屋敷を圧倒し、青々とした田面に浮かぶその景観は、まさに海に突き出る島のようでもある。

図40 上空より見た高根沢町の農村景観


図41 農家の屋敷構え(大谷 鈴木家、昭和48年頃)


図42 山崎家(石末)屋敷構え現況図(左)とその外観(右)