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直屋と食違い棟

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 当町における母屋の形は、真上より眺めた平面形を見ると長方形が圧倒的に多い。このような長方形平面の家を一般には直屋という。ところが当町には、極めて少数ではあるが、正面から見ると曲屋のような、真上より眺めた平面形をみると図45のような形をした家がある。これは母屋の棟が前後に食違ったものであり、そのことからこのような形をした家をここでは便宜上「食違い棟」と呼ぶことにしたい。
 この食違い棟の民家は、国指定重要文化財である河内町の岡本家住宅、同じく国指定重要文化財である市貝町の入野家住宅がよく知られるが、高根沢町でもこの度の町史編さん事業において大谷の阿久津家が食違い棟であることが確認され、また、亀梨の鈴木家の場合、旧母屋は食違い棟であり、現母屋はその変形であることがそれぞれ確認された。食違い棟の民家は、他県ではその事例が報告されておらず、その分布地域は本県のそれも高根沢町を含め河内町、芳賀町、市貝町、真岡市、益子町などに限るもので極めて地域性の強い造りの民家といえる。
 さて、食違い棟の民家は、どのような理由で作られたのであろうか。そこで、食違い棟の民家に共通する事柄を調べると、いずれも江戸時代の中後期に建築された、あるいは建築されたであろうと思われること、もう一つは江戸時代に名主や組頭など村役を務めた家柄であることがわかる。ちなみに大谷の阿久津家、亀梨の鈴木家ともに正確な建築年月日は不明であるが江戸時代に建築されたことは間違いなく、また、ともに名主を務めた家柄であった。つまり、食違い棟の民家は、江戸時代の名主や組頭など上層農民の暮らしが色濃く反映したものにほかならない。上層農民、中でも名主を務めた家には、役人など気遣いな客の訪問に対し、その対応のための特別な場が必要となる。いうなれば家人が日常生活する場とは切り離された応接間である。普通の農家であるならば座敷がこれに相当する。
 ところで県内には、江戸時代に建造された離れを構えた家がある。例えば宇都宮市上籠谷の芝野家、芳賀町和泉の岡田家などに見られる離れである。離れは客人の応対のために作られたものであり、応対の場と家人の日常生活の場とを切り離すという点では典型をなすものである。食違い棟の民家も基本的には離れと同じく、客人の応対の場と家人の日常生活の場とを切り離す目的で作られたものである。一般の農家のような同じ棟の中に設けた座敷と完全に切り離した離れとの中間型、それが食違い棟の民家ということができよう。大谷の阿久津家も亀梨の鈴木家も厩や台所など日常生活部分は、ともに後部の右側の棟(母屋より南を向いた場合の右側)にあり、一方、座敷部分は全部左側の棟にあり、その間に両者をつなぐように茶の間や広間がある。家人や家畜ならびに近隣の者は、後部右側の棟に設けられた大戸口より出入りし、一方、客人は式台より上がり座敷へと通された。このように棟を食違わせ日常生活部分と座敷部分とを分けることにより、家族は客人と気兼ねなく日常の生活を送ることが出来、客人も家族に気遣うこともなく訪問できたのである。

図44 食違い棟の民家(大谷)


図45 阿久津家現状間取り図(大谷)


図46 阿久津家推定復元間取り図


図47 鈴木家間取り図 現状図(亀梨)


図48 鈴木家に残されていた間取り図(亀梨)


図49 食違い棟民家の分布、昭和47年頃(『芳賀の文化財 第5集』及び筆者の調査より)