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取り外し便利な間仕切り

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 高根沢町の母屋の間取りは、広間型四間取りあるいはその発展形と整形四間取りあるいはその発展形とが入り混じると述べたが、広間型にしろ整形間取りにしろ間仕切り、言葉を換えていえば部屋境の仕切りは、納戸と座敷との間仕切り以外はオビド(帯戸)と称する板戸であったり襖、あるいは障子である。これらの特徴は、開閉が自在であるばかりでなく、取り外しがすこぶる簡便、つまり開放的な仕切りでもある。開放的な家が生まれた理由について、鎌倉末期から南北朝時代の随筆家であった吉田兼好は『徒然草』の中で「夏をむねとすべし」とし、夏の蒸し暑さをしのぐためには風通しをよくすることが肝心であると述べている。
 しかし、夏の暑さがそれほどでもない東北地方の家までも開放的であることは、必ずしも風通しだけではないように思われる。これは高根沢町あたりでもいえることでもあり、茅や小麦藁を厚く葺いた草葺き屋根は断熱効果が高くそれほど開放的でなくとも蒸し暑さを感じない。わが国の民家が極めて開放的な造りとなったのは、夏の蒸し暑さを解消することよりは、むしろ部屋の臨機応変な使い方を意識したものと思われる。例えば養蚕の場合、蚕が小さな時には飼育する籠の数も少ないが、大きくなるにつれて籠の数を増やさねばならず、当然、飼育する面積も広くなる。最初茶の間で飼育していたものが、次第に茶の間だけでは足りずに座敷も必要となり、座敷との間仕切りである帯戸を取り外し、茶の間・座敷を一体として蚕を飼うのである。
 一方、結婚式や葬式など人寄せ振舞いを行なう場合には、座敷を中心に行なうが、座敷だけでは不足する場合は帯戸を取りはずし茶の間と一体として用いる。また、結婚式の際には、嫁に付き添ってきた者は縁側より座敷に直接上がり、葬式の出棺は座敷より縁側を経てなされた。このように生活の全てを一つ屋根の下で行なうためには、その時々の暮しに適合できるようにしておかなければならなかった。取り外し可能な間仕切りは、臨機応変な暮しの中から生み出されたといってもよい。

図51 栃木県の間取り型分布図(『栃木県民俗地図』より)


図52 亀田家(花岡)間取り図 昭和初期建築 茅ぶき


図53 亀田家の推定復元図と部屋のおもな利用