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茶の間・広間・納戸・座敷での暮し

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 チャノマ(茶の間)・ナンド(納戸)・ザシキ(座敷)のある部分は、高床の部分である。蚕の飼育などで利用されたりしたが、家族がくつろいだり、寝たり、人寄せ振る舞いごとや寄り合いなどムラ人の集まるなどといったことに利用された所である。
 
①整形間取りの広間・茶の間
 整形四間取りでは、台所をあがったすぐの所が広間と茶の間となり、広間は南側に位置する。広間は普段畳が敷かれているが、畳を外すと板張りになっている家もあった。明治期の頃までは、一年中板張りのままでそこで機織りを行った家もある。その後、畳を敷くようになっても夏になると畳を外し、蚕の飼育などをしたものである。広間は、イロリまわりに通すわけにはいかず、かといって座敷に通すほどでもないような、例えばお客にやってきた親戚の者などがくつろいだり、座敷とともに人寄せ振る舞いの場として利用され、普段は家族の寝る所でもあった。また、茶の間との境の鴨居の部分にはダイジングサン(大神宮・伊勢皇大神宮)を始め、恵比須・大黒様などを祭る神棚が設けられている。正月には年神棚を設け、また、正月一四日にはマユダマ団子などを飾り立て、盆棚や十五夜の飾りをこの広間にする家が多い。
 一方、茶の間は、北側に位置し、ここにはイロリを設けたり、北側には仏壇を構える家が多い。茶の間のイロリは、台所の板張りに設けられたイロリと区別するためにウワイロリ(上いろり)と呼ばれる。普段は使わずに正月三が日や人寄せごとなどにのみ使われたが、次第に炬燵として用いる家が多くなった。茶の間は、台所のイロリまわり同様に家族のくつろぎの場であった。
 
②広間型における広間
 広間型間取りにおける広間は、アガリハナを上がったすぐの部屋で南側に面した部屋である。広間、茶の間、あるいは勝手とも呼ばれる。最も大きな部屋で、十二畳以上あるのが普通である。整形間取りでは茶の間と広間とがそれぞれ使い分けられていたが、広間型の広間ではそれらが一緒に機能するものでより中心的な機能を持った部屋であった。イロリが設けられ、来客の接待がなされたり、針仕事が行われ、夜は家族の寝所となった。ムラの寄合いや庚申様などのオヒマチ、あるいは葬式や結婚式などには座敷とともに振舞いの場ともなった。整形間取りの広間同様畳を上げると板張りとなっている場合が多く、養蚕農家では蚕の飼育がなされ、また、ここに機織り機を置き、機織りをしたものでもある。一方、広間には仏壇や神棚、正月には歳神が祭られ、マユダマ団子や盆棚、十五夜・十三夜の飾りなど季節ごとの祭りの飾りが設けられた部屋である。
 
③ナンド
 ヘヤとも呼ばれる。整形間取り型では座敷の北側に広間型では広間の北側に位置する部屋である。茶の間あるいは広間との境だけが戸立てとなり、座敷との境は壁で仕切られ、母屋内部では、最も閉鎖的な部屋である。夫婦、特に若夫婦の寝所として利用されるとともに箪笥や長持ちなどの置き場ともなった。一方、若夫婦の寝所となったところからお産の場ともなったものである。しかし、前述したように薄暗い閉鎖的な部屋であるところから、物置となり、寝所や産室として使われることが次第に少なくなった。高根沢町でも昭和三〇年代頃まで自宅でお産をしたものであったが、当時ナンド(納戸)でお産をするといった事例は少なくなり座敷やナカノマなどが産室にあてられた。
 
④座敷
 整形間取り型では一間のみ、広間型ではオクザシキ(奥座敷)・シタザシキ(下座敷)の二間続きとなっている。ザシキには床の間や違い棚などが設置され、オダイジン(お大尽)と呼ばれるような大きな家では書院がつけられていることもある。ともあれ、部屋の中では一番上等な造りになっているのが座敷である。普段は年寄りの寝所として使用されることが多いが、来客の際には客の寝室ともなる。
 一方、結婚式の際には座敷で、広間型においては奥座敷で三三九度の儀式が執り行なわれ、葬式の際には祭壇が設置される。また、三三九度の後の披露宴や葬式や法事、あるいはその他の人寄せ振舞いごとの際には、座敷と広間との境の間仕切りが外され一体となって使用された。
 
⑤縁側
 広間や座敷のように独立した一つの部屋ではないが、縁側の果たした役割は大きい。広間および座敷の南側から東側にかけて設けられるのが一般的である。これをトオリエンといっている。幅は三尺が基本であり、規模の大きな家によっては四尺五寸と幅広いトオリエンを設置している場合もある。
 縁側は、雨戸のつけ方によって外縁と内縁とに区分される。外縁は雨戸が部屋境につけられ縁側が雨戸の外側になるものであり、内縁は雨戸が縁側の外部につけられ縁側が雨戸の内側となるものである。縁側の発達では外縁から内縁へとの変遷をたどり、高根沢町あたりでは明治の中期頃までに建築された民家には外縁が多かった。
 縁側は日当りがよいところから冬季、女たちがヒナタボッコをしながら針仕事をしたものであり、また、少量の豆類などの干し物は縁側で行ったりした。
 正式の入口である式台を持たなかった一般の農家では、縁側が冠婚葬祭の際の出入口として使用された。嫁入りの際、嫁は大戸より入ったものであるが、嫁に付き添ってきた者は縁側より直接に座敷へと上がったものである。葬式においても僧侶は縁側より座敷へと上がったもので、また、出棺は座敷より縁側を通って行われた。子供が履物を新調してもらった時など、思わず履物を履いたまま縁側より庭に下りようものならば、「縁起でもない」、といってそうした行為を戒めたものであるが、家の者が履物を履いて縁側より外に出るのはあの世に旅立つ時だけだったからである。
 このような縁側の他に、幅が六尺ほどもあるロクシャクエンを持つ家もある。規模の大きな民家であり、普段は畳敷きとなっているが、夏季には畳を上げて板張りとして使用する場合もあった。明治期の頃にはここに機織り機を置き機織りをしたという。

図63 ヒロマの奥にまつられる仏壇(宝積寺)


図64 日当たりのよい縁側(花岡)