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鉄道の開通と駅からの輸送

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 明治一九年一〇月に東北本線は宇都宮―那須(西那須野)間が開通し、この時は高根沢町は通らず、東鬼怒川と西鬼怒川を横断する低地に敷設された。しかし、洪水による鉄橋の破壊や線路の浸水により、しばしば運休を余儀なくされた。このため、路線は鬼怒川東側の丘陵地に変更され、路線の変更にともない、宝積寺駅ができるのが明治三二年である。鉄道はそれまでの輸送体系を一変させ、駅はその地域の中心的な役割を果たした。駅を中心に貨物輸送が活発化するが、それとともに旅客輸送も盛んとなり、駅は交通網の要として機能するようになる。
 また、人力車の営業は『宝積寺駅の八十年誌』によると、大正六年に岩渕助三郎が人力車一五台を保有して構内営業を許可されている。当時人力車は駅の乗降客とともに市街地の中でも利用されたようであるが、昭和四年には人力車の構内営業取消し願が承認されている。それは、この年の一月一三日に西町に大火があり、駅前も火災に見舞われ構内営業の建物も焼失したものといわれている。さらに、この時期になると自動車の輸送が普及し、次第に人力車や馬車が駆逐されていった時期とも重なり、人力車も姿を消すこととなる。
 自動車による輸送は、大正六年に烏山町に本社があった下野自動車株式会社が乗合自動車二台を持って宝積寺駅で営業を開始する。また、大正八年には烏山自動車合資会社が許可されている。当時料金は二円程度で、烏山線の料金が五〇銭であったため、鉄道が開通するとその利用は激減したようである。
 そして、烏山線開通後、鳥山―宇都宮間に矢野自動車商会が乗合バスを運行し、後に東野バスへと発展して行く。鬼怒川にかかる鉄橋は、大正一四年に開通し、定期バスも運行されるようになる。
 このように、宝積寺駅の開業により人力車・乗合客馬車から自動車・バスへと、交通手段は変わっても、駅は交通の中心的な位置を占め、特に烏山にとっては宝積寺駅につなげることにより、町の盛衰を賭け、このことが強力に烏山線の敷設へとつながったものと思われる。そして、宝積寺駅から宇都宮への路線の拡大により、高根沢は交通網の範囲を広げていったのである。