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〔馬車引き〕

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 馬車引きは、オート三輪が登場する前までは輸送の花形であった。高根沢町には多くの馬車引きがいたが、営業として専門に行う人は少なく、仁井田駅前には専業の馬車引きが二軒ほどあったといい、それ以外は農閑期や頼まれて運ぶといった人たちが多かった。主に米を小作の家から地主の家へ運搬したり、各家々から仁井田駅や宝積寺駅の農協へ、また米買い人のところまで運んだ。また、たばこの納付の日には葉たばこを多く栽培している農家では、馬車引きを頼んで専売所へ運んだ。そのほか、肥料や木材の運搬、薪や木の葉を山から家へ運ぶこともあった。米俵は馬車に二〇俵積み、太田から宝積寺駅まで一日に二回ほど運び、臨時的に行う人でも五〇日くらいは出たという。この他に花嫁道具の運搬や戦中には疎開者の荷物を運んだものである。
 ところで、阿久津小学校近くに生駒神社の大きな碑があり、そこには「(正面)生駒神社 正三位勲四等子爵戸田忠友謹書」と記され、裏面に寄付者四六名と宝積寺組荷馬車営業組合員九三名の名が刻まれている。大正五年のこの時期は、荷馬車輸送である馬車引きは最盛期を迎え、近隣からの荷物は馬車引きにより宝積寺駅に集められ、また貨車から下ろされた荷物は、また馬車引きにより各地に運ばれていった。宝積寺駅は貨物の集散地として活気があり、そこには多くの馬車引きの出入りがあった。この生駒神社の碑は、そうした馬車引きの隆盛を今に伝えるものである。
 宝積寺―烏山間の物資輸送には、常時一〇〇台程度の馬車引きが輸送に当っていたといわれ、宝積寺までの所要時間は片道五時間かかり、荷物の積み下ろしなどで約三時間を要し、烏山を午前五時頃出発しても、帰るのは午後七時頃であったという。烏山からの荷物は、木炭・材木・葉たばこ・和紙・米・麦類が六割を占め、宝積寺からは、肥料・砂糖・醤油・塩・魚類・衣料・雑貨類であり、その中でも多いのが肥料であった。一台の積荷は一トン前後で、一日往復して四円五〇銭から五円ほどであったという。この他にも杉山方面や祖母井方面からも集まって来たり、周りの村々からも来るなど、大変な数の荷馬車が宝積寺駅を中心に行き来したのである。

図2 生駒神社碑(宝積寺)