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宝積寺駅前

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 高根沢町に東北本線の駅ができるのは明治三二年一〇月で、これにより宝積寺駅が誕生した。宝積寺駅の誘致には、小池与一郎を中心とする宝積寺駅設置委員会が設けられ、駅予定地及び付近の土地を買収し、これを駅敷地として日本鉄道会社に寄付した。その後宝積寺殖民株式会社を設立し、駅周辺の開発に乗り出す。買収した土地を希望者に貸し付けるという形で市街地を形成していった。このように、宝積寺駅周辺の市街地は、他の市街地とは異なり、土地を貸し付ける形で家並みができ上がって行った。こうして、宝積寺駅を中心に、鉄道と並行して西町が形づくられ、鉄道を横断して天神坂に至る東町に市街地が形成されて行った。
 ここで、『東町の歩み』を参考にしながら、大正末から昭和初期の宝積寺駅に隣接した東町の市街地の様子を見てみることにする。
 店商としては、穀屋・呉服屋がそれぞれ五軒、小間物屋が四軒、それに肥料屋・洋品店・金物屋・材木屋があった。また、当時としては東町に料理屋が六軒、酒屋が八軒あったといい、西町にも多くの料理屋・酒屋があり、いかに活気のある町であったことがうかがえる。
 また、日用品や食料品を扱う店として、菓子屋が三軒あり、魚屋・乾物屋・豆腐屋・薬屋が二軒ずつあり、それに芋屋・こうじ屋・お茶屋・炭屋・ランプ屋・新聞屋・タバコ屋・雑貨屋・荒物屋・提灯屋が軒を連ねていた。さらに、職人が店を構えて商売する、荷ぐら屋・スルス屋・鍛冶屋・下駄屋・金ぐつ屋・土管屋・カゴ屋・桶屋・篩屋・塗り物屋・仕立て屋があった。この他、建築関係では材木屋や大工・ブリキ屋・畳屋があり、さらに自転車屋・時計屋・床屋・髪結・医者・歯医者の他、菰買いや鳥買い、人力車夫・馬車引きなど当時東町には合わせて一〇八戸ほどの家があったという。
 このように、昭和のはじめ頃においても駅を中心として、各種の商店が存在し市街地を形成していたことがわかる。
 そして、戦後においても市街地の様相はそれほど変わらなかったようで、駅前には、地主の共同出資でつくられた宝積寺倉庫株式会社と駅前周辺の宅地開発を手掛ける宝積寺殖民会社が店を張っていた。烏山線の物資輸送のため、運送会社が多く、丸通など三業者が軒を連ねていた。また、西町には旅館や料理屋が多く、駅前の宝石館や善井屋は旅館を営み、宝石館は食堂松屋も経営していた。料理屋として大和屋があった。
 一方、東町でも料理屋・旅館が多く、一般の料理屋である浮世亭、高級料理屋として鹿島館・豊月があった。これに芸者置屋としてたつ屋があり、旅館は穂積屋が、木賃宿として吾妻屋が店を構えていた。また、酒屋も多く池嶋・藤田・野中・星野・柏屋酒屋が東町にあり、西町には小林・小口・田口酒屋が見られた。東町のある酒屋では、商品として、酒・味噌・醤油・葡萄酒・焼酎を販売し、酒は大田原市野崎の酒造元から購入し、味噌は白河から取り寄せ、麦と米麹の味噌でツブシ味噌とコシ味噌があった。醤油は千葉県野田市から、葡萄酒と焼酎は宇都宮上河原の大津屋から仕入れた。計り売りで配達が多く、酒は名入りの通いトックリで配達した。また買いに来る客もあった。ほとんどが現金払いであったが、信用のおける堅い人には暮払いで一二月二三日の暮市の日に勘定を払いに来てくれた。その時は、刺身・煮魚を出して振舞ったという。また、モッキリといって夕方五時頃から夜の九時頃まで、馬車引きや大工など常連の人たちが酒を呑みに来た。常時二〇人ほどいて、当時の夜の酒屋の光景であった。
 東町は、一丁目~五丁目まであり、東町四丁目が最も華やかで「銀座四丁目」と呼ばれるほどだった。
 また、西町の白倉稲荷神社は、現在は公民館の敷地に移されたが踏切の近くにあった。初午の日の例祭には、子供相撲や余興があり太々神楽が上演された。大きな事件としては、昭和三年に宝積寺駅から踏切にかけて大火があり、記憶している人は時代とともに少なくなっている。

図3 現在の宝積寺駅


図4 昭和10年頃の西町の商店


図5 昭和10年頃の東町の商店


図6 昭和33年頃の西町と東町、天神坂(1)


図6 昭和33年頃の西町と東町、天神坂(2)


図6 昭和33年頃の西町と東町、天神坂(3)


図6 昭和33年頃の西町と東町、天神坂(4)


図7 白倉稲荷神社(宝積寺)


図8 宝積寺駅前通り